マーブル色がなかった世界で伸びをしたかった
私は中学と高校が楽しくなかった。それは、マーブル色がない世界だったから。
マーブル色というのは、外の世界と自分が過ごしている混ざった世界ということだ。多様性のある世界のことだ。
私は、カトリックの女子の中高一貫校に入った。自分でいうのもなんだが、ぬくぬくの温室だった。チケットがないと入れないくらい閉鎖的で、同質的だった。
ぎゅーーーと背筋の伸びをしたかった。そんな感じ。
私がプールが死ぬほど嫌いだったため、プールのない学校に行きたいという思いと、親のカトリックの学校にいれたいという思いからの中学受験と、その選択の結果だった。
中学と高校が楽しくなかった理由はただひとつ、「私が他人に心を閉ざしていた」からだ。
人に心を閉ざしていた理由は、2つある。ひとつは、私とみんなは違うという意識があったから。もうひとつは、人と長く付き合うのは無理だと思っていたから。
ひとつめの「私とみんなは違うという意識があった」というのは、私の生い立ちに関連している。
私は両親の離婚と再婚で、小学校卒業までに5ヶ所の場所に住み、3つの小学校に通った。この「鳥井美沙」という名前は、10歳からだ。新しい同級生に自分の生い立ちを説明する必要もないし、周りはいわゆる「お嬢様」が多かった。みんなは両親がいて幸せな家庭で育ってきたのだと思っていた。
そんな幸せそうに見える友達に、自分の家族の話をしたくなかった。だから、友達に家族の話はあまり聞かなかった。
ふたつめは、人と長く付き合うのは無理だと思っていたから。「私は小学生の頃は3年間くらいしか人と付き合った経験しかないから、人と深く長く付き合うのは飽きた」と思っていた。「思っていた」という表現よりも、「言い聞かせていた」という表現が近いかもしれない。
2,3年に一度、人間関係はアップデートするものなのに、6年も一緒なのは、今考えると気持ち悪い。 でも、その学校という私が見ていた「世界」では、それが当たり前だった。
「上辺だけの人間関係」も嫌だった。そりゃあ自分の心を開いてなかったから、深い関係を望んでもいなかったのだけれど。相手の嫌なところを抱えた上で付き合うのも嫌だった。
例えば、中2の頃に私を仲間外れにした人間が、高3で知らぬ顔をして近づいてくることがあった。とっても嫌だった。
私の学校は徒歩20分くらいの場所にあり、バスでも徒歩でも通えた。最初はバスで通っていたのだが、中2の終わり頃、登下校仲間で仲のいいと思っていた友人にいきなり「あなたと一緒に帰りたくないから、バス通学から徒歩通学にして」と言われた。いわゆる「はぶり」というものだ。女子校あるあるだった。
そこから、私は徒歩通学になった。ひとりの時間が増えて、心や身体は軽くなった。同好会の代表やスピーチコンテストなどもやったが、私は学校に居場所を感じていなかった。「8:15から16:30までいるところ」として無感情で過ごしていた。
だんだん、学校の外の世界にハマるようになっていった。 中1から習い事の書道に週3回熱中したり、高1で高校生ボランティア団体や立ち上げたりしたら、そちらの方が楽しくなっていった。
中高が楽しくなかった反面、自由で、多様性のある、開放的な大学はとっても楽しかった。今までみてきた「世界」とは違っていた。モノクロだった世界に色がついてきた感覚だった。
「学校」と「家庭」は、子どもが過ごす世界の中心だ。そこで"当たり前"とされていることが、その子の価値観をつくる。
高校まで、狭い窮屈な世界にいたから、大学で、ほんとうに文字通り「大きく」「学んだ」と思う。これからはどんな世界を見ていくのだろうか。
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