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中二で父と死別したことが人生で最も有益な経験である理由
人は誰しもみんな死ぬ。昨日をどれだけ充実に生きたとしても、後悔のある今日を過ごしたとしても、明日という日が保証されていないのは当たり前のことである。しかしその「当たり前」を目の当たりにし、新しい学びに気付けるのはいつなのか。
運がいいことに、私がそれに気づいたのは中学二年生の時だった。それは病気に対して「この野郎!」と最後まで戦い切った父との死別の時だ。中二の時点で、周りに親を亡くした子は知っている範囲で誰もいなく、離婚による片親の子はいたが、離婚と死別は全くの別物であったのだ。
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私が幼い頃から母と私と多くの時間を共にし、おそらく一般的な父親が家族と過ごす時間とは比にならないほど多くの良質な時間を過ごし、愛情をもらった。私が三歳から習っていた空手では父が常に私の練習相手になり、小学生の私にとって、100 kg 近くの巨漢との殴り合いは日課であった。そこで培った粘り強さとタフさ、技術面と精神面の強さを持ってして、私は世界大会優勝にまで上り詰めた。
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そんな父との死別を、声を大にして「いい経験」「有益な経験」と呼ぶのは、「周りが経験しないことを経験すること」が何よりも大切だからだ。
中二で父親を無くすという、そんなショッキングなことを経験するのは少数だと思った。ということは、自分は少数派、ということはつまり素晴らしいということ、というロジックが、中二ながらに脳内に芽生えていた。周りと違うことの力、それゆえ同級生よりも一回りも二周りも、自分が強い人間であると感じるようになったのだ。
父の死という圧倒的なことを経験し、周りの同級生がとんでもなく小さい存在に見えた私は、自分は違う人間、みんなとは同じにはならない、と考えるようになり、同時に、これから先何があっても全く動じない確証を持てた。物事に対する「恐怖心」や「悲しみ」という感情を抱くこと自体を恐れなくなったのだ。
「自分にはなんでもできる」
そう思った私は、学校の授業に嫌気がさしていたので、手始めに授業を無視して独学で英語を学び始めた。全て自己流で、同級生になんと言われようと、独学が趣味になるまで英語を極めた。これがいつしか功を奏して、単語テスト4点レベル、英検三級不合格から海外大学進学レベルの英語力になったのだ。お高い英会話スクールに通う生徒、優等生、少しの英語力でやたら威張り散らしていたクラスメート、彼らを独学で追い抜いていくのは、すこぶる気持ちよかったし、なにより自信につながった。
高校に進学してからも、今までの全ての人生経験を勝手に武器にして、根拠のない自信と共に生きていた。第三者から見れば、全く見合っていない自信であったのかもしれない。でもそれは対して気にならなかったし、仲の良い数人以外、正直周りはどうだっていいと思っていた。
そのうち、英語の先生にも一目置いていただくようになり、自信がさらに上がった。そのようにして、今現在通うイギリス国立大学への進学の道が整ったのだ。しかし、さらに人と違うことをしでかしたいと考えた私は、蹴る
前提で青山学院大学の一般受験を受けることにした。英語のみで受験できる英米文学科であり、逆輸入の帰国子女や外国人が受けることで知られている方式だった。
またも根拠のない自信により余裕で受かると思って応募したし、実際に受かった。だれかに示そうというより、それで自分を鼓舞できるからこその行動であったのだ。
このように、父との死別は「保証されていない明日」という当たり前への気づき、のみならず、多くの人が得れない貴重な経験、マインドを私にもたらした。
「他者とは違う」という自覚とそれを武器にしたマインドは、後にも先にもない確固たりつつも、特に根拠のない自信の形成に繋がった。と、いまなら俯瞰的に考える。そして、この根拠のない確固たる自信が、私を海外の大学にまで運んだのだろう。この経験を有益と呼ぶ以外になんと呼ぶのか。
最後に、冒頭の悲観主義的な文は以下のようにも変換できる、と書き残して終わる。
人は誰しもみんな死ぬ。昨日をどれだけ後悔と共に生きても、明日は保証されていないし、今日という日が訪れたのはただのラッキーである。後悔した昨日や、保証されていない明日を気にするよりも、確実に空を見上げられる今日という日を好きなように目一杯生きるのが、当たり前を謳歌する最善の方法なのかもしれない。