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破天荒で優しい私の祖母。

私の祖母は、私が小学低学年の頃から同居を始め、15年前に83歳で他界しました。

同居する前までは、父母に怒られた時に駆け込む所はなかったのですが、同居してからは、とにかく祖母が絶大なる私の味方でした。

私の祖母の人生

祖母は大正生まれで、貧しい家に育ちました。兄弟が多く、学校へも妹をおんぶして行ってましたが、教育の重要性を知らない親の元、小学校も半分くらいしか行かず、結果、文盲でした。カタカナと自分と子供の名前だけ書けました。

結婚してからも子供は男の子3人に恵まれましたが、長男は30代で心筋梗塞で亡くなり、三男は3歳で事故で亡くなりました。次男である父だけが、結婚し、孫が1人できました。孫である私はとても可愛がられました。

旦那には恵まれず、働かない、女癖が悪いとありがちなだめんずで。祖母はほぼ、女で一つでやりくりしました。

途中、旦那に愛想をつかして離婚します。そして、再び好きな人ができて、その人を追いかけて子供を連れて大阪へと行きました。

そして再婚したものの、その人もこれまた酒乱。父の学費も全て酒に消えました。なので、父は中卒で働く事になりました。

ケセラセラおばあちゃん

と、ここまで聞くと波瀾万丈な祖母ですが。
実際は、とてもあっけらかんとした性格で「本能のまま生きる」、みたいな人でした。肺がんを罹患するまでは、何種類かもっているキセルでタバコを吸い、亡くなった2人目のだんなからもらった指輪をいつもつけていました。

そして、いつもハッハーと笑って私の顔を見る祖母でした。

私が親に怒られたとき、行きたい高校や大学を反対されたときとか、なんか祖母の部屋に行ってグチるんですよね。すると、いつも
「おばあちゃんはよくわからんけど、したいと思ったらやったったらいいんじゃない?しかし、高校かー。大学かー!すんごいなぁ〜。」と。

いつもいつも、受け入れてくれていたのです。

大学生になって親に内緒でタバコを吸っていた頃、帰省したときも祖母にだけは言えました。案の定、
「おばあちゃんの灰皿使ったらいいよ。わからんように始末しとくから。笑」
お母さんには言わないでね、と言ったら、
「隠す事でもないけどなぁ〜。タバコくらい何?って。内緒がいいなら黙っとくよー」

なーんか、大雑把だけど、ケセラセラ〜な祖母でした。好きなようにやりなさい、とよく言われました。

旦那と結婚の挨拶に行った時も、父と母に一通り話が終わったと、ぬーんと、旦那の横に現れて、、旦那の顔をしげしげと見て、(ちなみに旦那はバツ1)

「何でまた離婚したん?笑 酒?女?金?何〜?」(え、、いきなりー?)

「いや、、性格の不一致というか、、色々すれ違いというか。。。」

「なーんだ、つまらん。」

と言いつつ、ニヤ〜と笑い、去って行きました。

もう〜、ヤダ〜、おばあちゃん・・・。と思いましたが、らしいな、と思って笑っちゃいました。無論、ぶつぶつ文句を言うわけもなく、バツ1だからどうのこうのも言わず。旦那だけが真っ青な顔をしていました😂

祖母が同居していなかったら、けっこう悲惨な思春期を過ごしたかもしれません。

祖母の前では、何事も小さいことで、何を聞いても、大して驚かなくて、どんな自分でも受け入れてもらえて、とても居心地の良い人でした。

祖母と母

母は祖母が嫌いでした。2人は仲が悪く、子供ながらに、そこらへんの空気を読みながら過ごしていました。でも、なんとなく私は祖母の味方でした。

母は、祖母のことを「育ちの悪い人」と見下していました。私は、祖母の懐の大きさを知っていたから、それを理解しようとしない母を残念に思っていました。

母方の祖父母の家に行く時は、成績表を持参する決まりになってしました。
だから、母方の祖父母の家に行くのは嫌いでした。5段階評価の小学生の頃から、「5が少ないね〜。もうちょっと勉強しないとね!」とか、言われました。どんなに頑張っても、その数値だけで頑張りを判断されて、不愉快でした。

当たり前ですが、同居の祖母は、成績なんて興味なかったですし、それより一緒に、お手玉やおはじきで遊んでくれたり、私が毎日祖母の部屋で書く絵日記を楽しみにしてくれました。何冊もたまった絵日記を大事に取っておいてくれました。

今、うちの子供たちの状態を祖母が見たら、なんて言うかな〜って時々思います。
きっと、「しゃ〜ないね。好きにさせとけ〜」くらいなんだろうな、、って。

面白い人だったな〜、ほんとに。
お盆が近いので思い出してみました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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