がまん考(ほぼ千6)
「ガマンは今も美徳なのでしょうか。」
こんな話が最近ありました。
私個人としては、今も美徳だと思うんです。
でも、若い子らにはそうは感じられないかもしれないですね。
その辺りを書いてみたいと思います。
ところで、
ガマンには、何種類かあると思うんです。
大きくは、2種類のガマン。
積極的なガマンと、消極的なガマンです。
前者は別名「コントロール」といえるかもしれない。
後者は別名「やせ我慢」といえますね。
じゃあ、「武士は食わねど高楊枝」はどうか。
これは消極的かと言えばそうでもない。
屁理屈に近いけど、一見やせ我慢にみえるこのガマンは、
文脈によっては、自分をコントロールしているとも言えます。
例えば、
ダイエットを頑張っているサラリーマンが、
お昼ご飯をサンドイッチと珈琲だけですませてひと言。
「今日はオレ、武士は食わねど高楊枝。」
これは、積極的なガマン(コントロール)といえないでしょうか。
でも、逆の文脈もあるんじゃない?という反論もあるでしょう。
先ほどのサラリーマンをみたコンビニバイトのお兄さん、
「あのおっさん、また武士は食わねど高楊枝やってらあ。」
これは、消極的なガマン(やせ我慢)と見ているわけで。
そうなると、ガマンという行為には、主体の身分によって意味合いが変わってくるのでしょうか?
サラリーマンは気高い身分なの?
バイトのお兄さんはサラリーマンを皮肉る身分なの?
でも、バイトのお兄さんの打ち込んでるバンド活動のライブにサラリーマンが興味を持ってたりしてね・・・笑
現代社会は、身分だったり立ち位置がコロコロ、というかめまぐるしく変わるので、
相対的にみると、ガマンも意味合いが変わってくるのでしょうね。
現に私は、最初に「ガマン」を分けて、相対化したワケだし。
それと個々人がそれぞれコントロールできる範囲なんて、たかが知れてると思うんです。
それですぐにガマンの限界になって、周囲からはやせ我慢と見られたりして・・・。
けったいな世の中ですねえ。
では、むかーしむかしの絶対化された「ガマン」は、果たしてどんなものだったのだろうか・・・。
ところで、日本の神話には、ガマン比べをしたオオクニヌシとスクナビコナの説話があります。(『播磨国風土記』)
これはこれで、排便我慢と担荷我慢の面白い話なんだけど、今は置いておいて・・・。
あと、横浜にあるという菊名神社には「がまんさま」がいらっしゃるようで。
行ったことはないですが、ガマン信仰もあるんですね。なるほど。
おっと、脱線しました・・・。
はい、絶対化されたガマンですね。
私がイメージしたのは、「噴火」です。自然の山の噴火。はい、怒り爆発ドッカンですね。
極限までガマンして、ガマンして、、、ドッカーン!
大災害になったりすることがありますが、
昔の人々は、山の神様の噴火に、ガマンの姿を見立てていたのかもなと思ったりします。
個々人を主体とするわけではなく、自然や信仰を主体としていたむかーしのハナシでしょうか。
だから、ガマンは結構な美徳だったし、人々もかなりガマン強かったのかなあと推察します。
つまりは、「器」のハナシだと思うんです。
最近は聞かない言葉ですが、「器量」とか「閾値」とかですかね。
まぁウツワの話はまた別の機会に。
今回はここまでにします。
ありがとうございました。