足りないものに備えて(ほぼ千11)
ずっと話していられる関係の相手は、それほどいないかもしれないです。かく言う私も、話し込める相手は片手で数えるくらいしか、いません。
やはり皆忙しい。彼らは人生のステージもとっくに上がっていってしまっています。たまに連絡を取ろうと思うけど、気を遣ったり躊躇したりして、済ませてしまってることが多々あります。
もし皆還暦とかになれたら、気軽に声かけできるかもしれないので、それまでは生きてみようかと思ったり。
そこまではちょっと長すぎますが、甥っ子たちができたことも、生き抜いてみようというモチベーションになっています。彼らが成人するまでの間くらいは、私ももう少しできることを増やしていって、数十年後の景色を眺めてみたい思っています。
なんというか、ていねいに少しユーモアを入れて、のびのびと生活をしています。
でも、あともう少しで成れるんだけどなと感じていること結構あるのですが、なかなかそうもいきません。イベントごとなどで自分の至らなさに欠如を痛感することがあるのですが、それはそれ。
むしろ、欠如を特性として認めて、持っているものでやっていくしかないのです。いつか成れるといいなあと思いながら、きっかけがあれば掴んでいこうと。
そこで、思い切って最近は書きまくったりしているわけなんですが、この前は既知の間柄と、くっちゃべって来ました。
あれやこれやと話していて、話し終わって、さあ帰ろうとなったのですが、今振り返って殆ど何を言っていたか憶えてないんです。良いこと聞いたなとか、これはタメになりそうな話の流れだなとかあったんですが…。
憶えているのは、夕暮れで外から日が差していてその人の顔にかかっていたとか、パウンドケーキが美味しかったなとかだけ。
でも多分、話すってそういうことなんだと思うんです。何かを離して(話して)いる。それだけでいいように思います。そして、話を聞いてくれる相手がいることに感謝しつつ。今度はおみやげでも渡そうかとか。
まだまだ成れないという意識も、話していると消えていって、次第に楽しくなってきていました。あのとき、あの瞬間は私もなにかに成っていたのかもしれないです。逆説的ですが。
求めようとしたものは、求めなくなった途端手に入るというあの法則が分かってきたような、きてないようなです。
いずれにしても、話相手をもっておくことが、少なくとも私にとっては良いようです。足りないと自覚しているものも、吹っ飛んでいるし、俯瞰的にその欠如を眺めることもできました。
書いていて、だんだんとアドバイスを受けた内容を思い出してきました。
備えあれば憂いなし、ですね。