嘘つきとモンブラン
「じゃあ、手をあげた方がいいの?」
昨日、ささいなことから彼女と喧嘩してしまった。彼女が、私にモンブランを食べたと濡れ衣を着せたのが発端だった。
「ねえ。私のモンブラン食べたでしょ。」
彼女が、開けた冷蔵庫の扉越しに私に問いかける。2人で暮らし始めて3ヶ月、狭いワンルーム。
「食べてないよ。ないの?」
僕は彼女を一瞥して答えた後、すぐにテレビへと視線を戻した。
「ないの。昨日買ってずっと楽しみにしてたのに。アンジェリーナのモンブラン!」
彼女が語気を強めながら答える。アンジェリーナとは彼女が愛してやまないケーキ屋さんだった。
「本当に?昨日食べちゃったんじゃないの?いつもモンブランを買った日はその日に食べちゃうじゃん。」
今度はテレビから目を離さずに答えた。コント番組の途中なのだ。
「違うの〜!昨日は疲れてたから食べなかったの!万全な状態で食べたかったし、昨日までの限定品だったから昨日買うしかなかったし!」
彼女の苛立ちが募っていくのが背中越しにひしひしと伝わってくる。
僕は彼女の方へ体を向けて言った。
「見てないけどなあ。それに僕は昨日、友達と飲んでて終電を逃したから、そのまま彼の家に泊まって、仕事に向かって、帰ってきたのはさっきじゃないか。僕が食べる暇なんてないよ。」
「そうだけど…」
彼女は少し困った様にそう呟いたあと僕の方を強く睨んで言った。
「会社、途中で抜け出して食べたんじゃないの!だって、そうじゃなかったら泥棒が入ったってことになるでしょ。他に何か金目のものが盗まれたりしてるわけじゃないのに。この世にいるっていうの?アンジェリーナの限定モンブランだけを狙った乙女な泥棒が。」
「待って。よく考えてよ。どうして僕が会社を抜け出してまで君の大切なモンブランを食べるのさ。そこまでバカじゃないよ。それに、食べるとしても半分にしておくよ。君が大好きなことを知っているんだから。あと僕は乙女な泥棒じゃなくて、勘違いしてる乙女がいるだけだと思うけどな。」
僕が、呆れた様子があえて伝わるように言った。好きなコンビの芸がもうすぐ始まってしまう。早めにこの話を切り上げないと。僕だってこのコントをずっと楽しみにしていたのだ。
「もういい!私は泥棒とは一緒にいられないから出てく。」
そう言うと、彼女はひどく怒りながら靴を履き始めてしまった。
「待って!ごめん。本当は僕が食べたんだ。君が前々から限定のモンブランのことを話してくれていたし、最終日までには絶対買うだろうと思ってたから狙ってわざと遅くまで飲んでるように見せかけたりしてアリバイを作ったんだ。君の勘違いってことにしてモンブランを食べるために。」
僕は捲し立てるように言った。
「どうして嘘なんかついてたの!許せない。私のモンブランを食べるだけならまだしも、更に嘘をついて私を騙そうとするなんて。絶対許せない。」
彼女の怒りはピークに達してしまったようだ。今にも泣きそうな顔をしている。昔から彼女は、怒りが大きくなると泣き出してしまうタイプだった。コントを見たいがために適当についた嘘だったが、とんでもないことになりそうだ。
「ごめんよ。本当にごめん。」
僕のごめん。にふりがながつくとしたら、"コントを見させてくれ。"になるだろう。それぐらいコントが見たかった。彼女やましてモンブランのことなどどうでもよかった。
「本当に許せないんだけど!!私の気持ちを踏みにじってる。どうしてそんなことしたの!?私は信じていたのに!!」
彼女は怒り狂って唾を飛ばしながら僕に大声を張り上げた。
僕は泣いた。
もうどうすることも出来なかった。女は困ったら泣く。男だって困ったら泣いたっていいだろう。もし、僕の涙に擬音がつくのであれば、"コントが始まっちゃうよ!"になるだろう。本当にコントが見たかった。もしかしたら僕は俳優になれるかもしれない。泣くシーンで毎回この場面を思い出すのは嫌だけど。
すると今まで立っていた彼女が座っている僕に目線を合わせるようにして屈んで言った。
「ううん。私の方こそごめんなさい。実はモンブランなんか買ってないの。ただ仕事でミスをしてイラついてたから誰かに当たりたかっただけなの。」
殺してやろうかと思った。どうして僕はこんなやつと付き合ってるのだろう。何が起こっているのか分からなかった。この甘えを許してきたコイツの家族が許せなかった。教育をなんだと思っているのか。そして、彼女のこんな姿さえ愛しいと受け入れてきた自分を憎んだ。まさか、コントが見たいという欲が前面に出ないと気が付けなかったなんて。今まで僕はなんという現実逃避をしてきたのか。しかし、彼女の困っている顔を見るとそんな気持ちさえどこかへ行ってしまった。なんて可愛いのだろう。
「そうだったの。いいよ。仕事で嫌なことがあったんだね。僕の方こそ気付けてあげられなくてごめんね。それに、食べたって嘘をついてしまってごめんね。」
僕は慈愛に満ちた声で答えた。
「ううん。私が悪いから…でも…怒らないの?」
彼女が捕えられたユニコーンのような顔で不安そうに尋ねる。
「別に怒らないよ。どうして怒るの。」
僕は言った。
「だって、めちゃくちゃなことをしいるのに…」
「怒らないよ。」
「自分でしておいてこんなこと言えないけど…なんだか裕二ってこわいかも…」
「じゃあ、手をあげた方がいいの?」
僕はいよいよ疲れて、そう言ってしまった。何が目的なんだ。そもそも、モンブランは買ってきてあって僕が浮気相手と仲良く食べたっていうのに。彼女は、僕と食べるためにしっかり昨日二つ買ってきていた。僕はそれを浮気相手ときちんと平らげた。それなのに、どうして今更モンブランを買ってきていないなどと言うのだろう。もうよく分からなかった。しかし、思い返してみれば僕が女の子に勝てたときなんて一度もなかった。何を考えてるのかわかったときなんて一度もなかった。
「ううん。ごめんなさい。」
彼女が僕の言葉に怯えるようにして言った。
それは僕が女の子のことを理解しようとすることが今まで一度だってなかったからかもしれない。女の子は女の子としてその存在が必要なだけであって、人間としての存在価値は問うていなかった。犬ならなんでもよかった。猫ならどんな顔をしていてもみんな同じだった。つまり、そういうことだった。ただ、ヒトの言葉を話せるかどうかだけの違いだった。もう彼女ともいい機会なのかもしれない。