踊れ陰キャ男子
コンビニの自動ドアが開く度、有線から流れてくる3月9日が断片的に僕の耳に届く。
抜けるような青空を仰ぎながら、僕は息を吹き出す。
お店に入っていく客を横目に、僕は現実を吹き出していく。
吸い込む前には汚れていた煙も、一度僕の肺を通して仕舞えば、それは一様の美しさと愛着を持って、世界の一部となる。
勇気を振り絞って、3年前まで働いていたコンビニに来てみたところで、この僕が店長に話を切りだせる訳もなく、行き場を失った勇気はこうやって店の前でショッポの煙として処理する他ない。でも、この僕の勇気がタバコの煙を通して、世界の誰かのもとへと届くのかと思うと、それはそれで少し嬉しい気持ちになる。どういった形であれ、多かれ少なかれ誰かの役に立っていたいという気持ちは僕にだってあるのだ。
一体僕は本当にどうして、ここでまた雇ってください。の13文字が言えないのだろう。
女子高生に、好きです。の4文字が難しいのであれば、そんな彼女らより9つも歳をとった僕に、ここでまた雇ってください。の13文字が難しいのは当然なのかもしれない。
僕がこのコンビニで働き初めたのは、大学一年の頃だから、丁度7年前になる。それから、卒業するまでの4年間、このコンビニでレジを打って、宅配便を受け付け続けた。僕にはこのコンビニが人生で初めてのバイトだった。僕の高校はバイトが禁止だったし、浪人していた時も寝ている暇があれば勉強しろといった具合でバイトなんて論外だった。だから、大学に入ってみて、そのあまりの自由さに僕は腰を抜かした。浪人していた時は朝から晩まで予備校に篭りきりで、この世界は朝と夜で構成されていたぐらいだったからだ。
僕は、そんな自由な時間を生かそうと特に欲しいものもなかったけれど、求人が出ていた近くのコンビニに応募の電話をかけた。名前と年齢を告げると、本当に人がいないのか、すぐに面接をすることになった。
面接では、店長だという若い綺麗な女の人に、一週間にどれだけ入れるのか、何時から入れるのかといったようなことを聞かれ、上手く利害が一致したのかその場で採用された。
僕はそんな初めてのバイトで店長に恋をしてしまった。
店長は、このコンビニで働いていた元フリーターで、以前このコンビニで店長をしていた男とデキ婚していたらしい。
これは、パートのおばちゃんに聞いた話だが、この前任の店長というのがとんでもなくひどい奴らしく、ギャンブルで巨額の借金を抱えて、娘と店長を残してそのまま蒸発してしまったという。
店長が突然消えてしまえば、当然、スタッフから不満や不安の声が溢れてくる。そんな中、責任感の強い店長は本来店長が抱えるべきでない罪悪感を感じ、店長の職に就いた。
一緒に働いていく内に、僕はそんな店長に恋をしてしまっていた。
大学を卒業した後も、何か理由をつけては、店に行っていたのだが、最近は、仕事を辞めたその後ろめたさから店長に会うのに何だかひけめを感じてしまい中々行けていなかった。
聞いたところによると店長も元々一般の企業で働いていたらしい。店長は、責任感が強く、気の弱いその性格に漬け込んだ上司のパワハラに耐えきれず、会社を辞めてしまったと言っていた。昔の会社の話をしているとき、店長は、親指の腹を強く人差し指の第三関節に擦り付けていた。店長はストレスがかかる状況に置かれると、よく親指を人差し指に押し付けた。お釣りの渡し方が気に食わないと理不尽に客から罵声を浴びせられていたときも、カウンターの中でそうやって握り拳をつくっていた。
今では僕も会社の上司にパワハラを受けて会社を辞めてしまった。もしかしたら、僕は世間から見たら忍耐力のない若者の一人なのかもしれない。世間では、忍耐力とは理不尽なことに耐える力のことを指すからだ。でも、そんなことならきちんと学校で教えて欲しかったと思う。バレーや卓球なんかよりもパワハラの授業をカリキュラムに組み込んで、僕の忍耐力もしっかり養って欲しかった。
仕事を辞めてしまってしばらくは、何とか雀の涙ほどの貯金を切り崩して生活していたものの、最近はもうどうにも首が回らなくなってきた。
どこかで働いてお金を稼がなければ文字通り死んでしまう。実家には帰れないし、頼れる友人もいない。そんなある夜、店長が夢に出てきた。店長は発注ミスで、蚊取線香を100個も仕入れていた。どうして12月に蚊はいないのかなあ。ところころ笑っていた。
夢から覚めて、僕はコンビニで働くことを決めた。気が変わらない内に素早く支度をすませ、家を出た。こういった時の衝動的な勇気というのは、時間が経つほど、その効力が失われていってしまうものなのだ。
けれども、そんな僕の努力の甲斐なく、予想通り、コンビニへ着く頃には僕の急拵えの勇気など見る影もなくなっていた。
帰ろうかとも思ったけれど、今ここで帰ってしまっては二度と来られないことなど分かりきっていたので、人生で一度だけだ。と半泣きになりながら勇気を振り絞った。
駐車場を抜け、自動ドアを通ると店長と目が合った。
店長は僕を見つけると、久しぶりと優しく微笑んだ。
「お久しぶりです。今日は少しお客さん少なそうですね。」
「そうなの。休日だしみんな遠出でもしてるのかな。」
今日はどうやら休日らしい。ずっと家にいると曜日感覚が無くなってくる。
「ところで今日はどうしたの?随分久しぶりだね。」
店長に優しく問いかけられる。
頑張れ俺。
「それなんですけど。ちょっとあの…突然であれなんですけど…実は僕会社を辞めてしまって。」
レジ袋は一枚3円です。と吹き出しで話すコンビニのマスコットキャラクターに見つめられながらそう告げた。
「あ!そうなの。私と一緒だね。」
そうやって店長は夢と同じ笑顔でころころと笑う。
「だから…あの…」
喉まで出掛かって結局僕は言い出せなかった。
ここでまた雇ってください。
会社を辞めたことが言えたのだから、そんなことぐらい言えばよかったのに、小さなプライドが邪魔をして無職であることを打ち明けられなかった。
僕が店を出て外でタバコを吸っていると、昼ピークを終えた店長が自動ドアを抜けて僕の方へと近付いてきた。
「まだタバコ吸ってるんだね〜。」
「ええ。中々辞められなくて。」
僕は笑いながらそう返す。コンビニを辞める時にタバコを辞めると言っていたっけ。そんなことを考えていると店長が急にニヤニヤし始めた。
「ねぇ。斎藤くん。実はまだ就職先決まってないんじゃないの。」
僕はそう言われて凄い恥ずかしかったものの既にバレているのならもう隠す必要もない。
「…実はそうなんです。」
「やっぱり。だって会社辞めたって言ったときずっと下向いてるんだもん。分かりやすすぎるよ。」
もっと正々堂々と言うべきだったなとも思ったが結局伝えられたのだから、俯いていて良かった。
「あはは。本当ですか。ちゃんと前向いとくべきだったな。」
「そうだよ〜。話す時は相手の目を見ないと!ところで、次のとこはもう見つかってるの?」
来た。頑張れ俺。
「あ〜それなんですけど…良かったら、ここでまた雇ってくれませんか。」
言ったぞ。目は見れなかったけど口を見ながらいってやったぞ。
「あ、そういうことね〜!そんなの全然良いよ!私も斎藤くんが入ってくれるなら嬉しいし、お店としても凄い助かる!次の仕事見つかるまでうちで働きなよ!」
やった!こんなことなら、もっと早く言っていればよかったと思った。大抵の不安は杞憂なのだ。偉い誰かがそう言っていた。
僕はこの時、今しかないと思った。店長に打ち明けられた嬉しさが僕にそう思わせた。今ならこのままいけると思った。促成で栽培された僕の勇気がコンテンポラリーダンスを踊りながらその出番を待っていた。
「あと、良かったら今度水族館でも行きませんか?店長、確かペンギンお好きですよね。何か今ペンギンのイベントしてるらしいんですよ。」
僕が今度はしっかりと店長の目を見てそう言うと、店長はすこし困った顔で、行きたいのは山々なんだけどちょっと最近全然人出が足りなくて。と申し訳なさそうに返してきた。コンテンポラリーダンスを踊っている勇気なんかあてにするんじゃなかった。
そう言われて、何だか急に恥ずかしくなってきた僕が視線を落とすと、店長の人差し指は親指に押さえつけられていた。
それはそれ。これはこれ。