今日も、つぶやく!!

 どうも皆さんこんにちは。NOTEを長めのツイッターだと勘違いしております、千葉の大学一年生です。最近はマンネリ化する毎日に心が擦れてまいりまして、どうにか自己肯定感を養いたいとネットサーフィンをしておりました。すると、誰でもいいので誰かになり切きる人物を自分の中で決めておいて「○○さんだったらなんていうかな」なんてのをしていますと、自然と自己肯定力なるものが身につくというお話を目にしたんでございます。確かに自分もそんな考え方をすることが時々あります。主に父親なんていうのが僕にとってはちょうどよい対象だったりするのですが、今日はそんなお話をしてゆこうと思います。

父は厳格な人でありました。私が、それこそ小学生やもっと小さかった時分にはとても厳つい男として、叱られると確実に痛い思いをする恐怖の対象だったんですね。彼の職業柄というのもありましょうが、当時私にとっては大きく武骨で冷酷なイメージがございました。小学生も中ごろを過ぎ、いよいよ高学年といったころにはお受験が本格化してまいります。すると、国語や社会などを教わる機会も多くなかなかな恐怖支配をされておりました。今から思えば、習い事のあるたびに車で送迎してくれ、さらに毎週決まってジュースを買い与えてくれる息子思いの父親でありましたが、今からするとやはり恐ろしさが前に立つのは皮肉でございます。特にお受験のための勉強となると私にとってはもう退屈そのものでありました。当然すぐに集中力は尽き眠くなります。こっくりこっくりと頭を揺らし始めますと説明の途中であった父の語調は強まり、本文をなぞっていたはずのボールペンの先端が、大男の指先の筋肉によって音を立てながら砕け散ります。幼いながらに衝撃を受けました、ボールペンは握ると砕けるものなのかと。それから中学生ぐらいになるとちょうど弟のお受験が始まりまして放任されがちになります。ここで私の中での父親のイメージのちょうど転換点となるわけでございます。この辺りから両親は対等に接してくれるようになりまして自立心の芽生えへと転じていったというのが我が家の親子史・第一章であります。

今から当時のお話を聞きますと、いろいろ彼には彼なりの考え方があったようで、塾講師として小学生を相手取る私にとっては目からうろこの連続であります。

アルバムで幼い時分の私を顔面に乗せたまま昼寝をしている父の写真を見つけました。当時にはまだ言葉としてなかったいわゆるイクメンというやつでございます。おしめを変え、ミルクを溶き、出せない鼻水を吸い出したそうでございます。共働きだったその夫婦はそうやってかわるがわるだったそうで、無事に妻も転職を成功させ万事うまくいっていたそうです。
小学生の頃にこの写真を見た私は、写真の中の自分をうらやましく思ったものです。

閑話休題

曰く、「幼いころの子供というのはもちろん人間としては未発達で、理性を持つ人間ではない。子育てというものはまず、子に理性を植え付け人間にしてやることから始めるものだ。これこそが愛で、甘やかしてそれを放置するのは怠慢である」と、そのようなことを言っておりました。今思えば、父が私から何か取り上げる、ということは一度もなかったように思います。何か悪いことをしたなら先ずしばき、そして言い聞かせる。納得できない時は何度でも質問に答え時間を費やしてくれたんでございます。逆に母には、何か悪いことをすると何かを奪うといって聞かせ、コントロールしようとするきらいがありました。そのことで、あとでこっそりではありますが母が叱られていることも息子である私は知っていました。勿論母は快活で、その上活発な女でありましたから夫にないものを持っていて、夫婦として補い合う様子は息子に伝わっているため、尊敬していることに変わりはありませんが「子を叱る」たったこの一点に限って言えば、長けているのは父親でありました。

昨今の教育現場における虐待というのはよく、生徒側が悪いのか教師側が悪いのかという議論になりがちだと思います。ですがよほど一方的な暴力事件でない限り、生徒のほうに非があることを前提に考え、その上で教師の処置が適切であったのかを議論すべきで、そのような状態になるのが本来は正常だと思います。しかし前者のように大人側に問題がある場合が少なからず潜んでいるのもまた事実であり、加えてその現場を見ている第三者が生徒である場合が多い。となるといよいよ複雑になってしまう問題でございます。そしてすべての根幹にあるのは、今ちょうどそれくらいの年齢のお子様を育てられている世代や、実際に教育の現場で教鞭を振るっておられる方々の属する世代。これらの世代を育てたもう一つ上の世代にこそ、問題の根源が潜んでいるような気がしてなりません。もちろん、教育の場で体罰が必要かというのは賛否両論であります。ですが子育てにある程度の体罰は必要であるという考えは私が身をもって体験してきた故の論拠、なんでございます。本来は親が子になすべき処置を教育の場に丸投げしてしまっている状態というのは、無意識化における育児の部分的なサボタージュの結果しわ寄せがいってしまっている状態に近いものだと思えてならないのでございます。
その難しい体罰の調節を親がやってこなかったための代行として、親と同じく不慣れな教員がその立場から処置に迫られる。なるほど上手くいかないことの説明がつきます。もちろんこういったことはケースバイケースだと思いますが、このような背景を考慮することで新聞沙汰を減らすことができるのではないでしょうか。


あくまでもつぶやきなので今日はこの辺りで。

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