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人情とコンプライアンス(役人根性論)
芥川龍之介「猿蟹合戦」は、おとぎ話のさるかに合戦の後日談として書かれた小品である。その中で、怨敵の猿を殺した罪によって蟹は死刑になり、臼と蜂と卵は無期刑を食らう。世論は蟹に同情せず、遺族も辛い運命をたどる。蟹の妻は売笑婦となり、長男は同胞を食おうとし、次男は小説家になって詭弁を弄し、三男は愚物で猿に出会って父親と同じ過ちを…とそれぞれろくでもない生活に追われる。蟹の側からすれば救いのない話になっている。
この話、最後は以下のように締めくくられる。
「とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。」
この話については、実際のおとぎ話では猿が殺されたとは書いていないのに、そのように決めつけることは暴論だとの批判もあるようだ。しかしここでは、そうした文献学的な批判はさておこう。
この話で芥川が示唆しようとした内容については多様な解釈があってよいが、まず第一に読み取れることは、いかなる人情話もお涙頂戴も、世論と四角四面の遵法意識がタッグを組んだ大きな力、すなわち「天下」には勝てないということで、芥川はそれを戯作精神で嘲弄しているわけである。
遵法意識を発揮して裁く者は、近代においては国家だが、国家の代理人として活動するのは官吏である。芥川による「猿蟹合戦」の初出は大正12年の『中央公論』だが、実際のところ、この頃の官吏の行動規範はどうなっていたのだろうか。
やや遡って、明治末期における高等文官試験の目的は「受験人学理上ノ原則及ヒ現行法令ニ通暁シ並ニ其修得シタル学術ヲ実務ニ応用スルノ能力アリヤ否ヤヲ考査スルニアリ」(『高等官・判検事・弁護士受験提要』明治43年 巌松堂書店編輯部編)とされている。資質としては「現行法令に通暁」が条件であり、今現在も、ほとんどの試験では法律系科目が必須であることからもわかるとおり、公務員の事務職といえば法律の知識が不可欠とされる。
戦前の法学者である末弘厳太郎の「役人の頭」という評論は、法律の杓子定規な適用の典型例を紹介することから始まる。すなわちこの評論の冒頭で、一人の旅行者が土産物として持ち帰ったボッティチェリの名画「春」の印刷物を、税関で押収されたエピソードが披露される。透けた衣類を身につけた女神たちが描かれているこの絵を、税関官吏はわいせつ物だと判断したというのである。
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この冗談のようなエピソードは、国民からすれば冗談ではない響きをもっている。税関の役人は着衣が薄いという形式的判断でもって、この芸術作品をわいせつ物と認定するという、ほとんど恣意的な運用を行った。このことについて末弘厳太郎は以下のように解説している。
読者諸君はこの事件を以て、一小下級官吏によってなされた些事なりとして、これを軽々に付してはなりません。彼は一小下級官吏に違いありません。しかし、この具体的の事件について「国家」を代表したのは、彼その人です。…相手は「彼」一個人ではないのです。「国家」そのものです。この当該事件については、「彼」の目、「彼」の頭が、即ち「国家」の目であり、頭です。「役人の頭」を問題にしないで何としましょう。
ひとたび官吏として職を奉ずることとなれば、いかに知見に乏しく経験不足であっても、国家の意志として人民を処置する立場となるのである。こうした自覚なしに杜撰な窓口対応をする官吏の実に多いことは、現代においても全く同じであって、人々が経験的に承知していることと思う。そういった印象から「木っ端役人」・「小役人」などという侮蔑的呼称も生まれる。
末弘は、役所勤めが決まった新社会人に対して送る役人の心得を書簡形式で語った、皮肉に満ちたエッセイも書いている。そこでは、官吏の世界において、上手に立ち回る心構えとして三つの原則が語られている。
第一条 およそ役人たらんとする者は万事につきなるべく広くかつ浅き理解
を得ることに力むべく、狭隘なる特殊の事柄に特別の興味を抱きてこれに注 意を集中するがごときことなきを要す。
第二条 およそ役人たらんとする者は法規を楯にとりて形式的理窟を言う技術を習得することを要す。
第三条 およそ官吏たらんとする者は平素より縄張り根性の涵養に力むることを要す。
役所での業務の根幹はなによりも「区別をもうけない」ということである。仕事仲間に対して気を利かせてくれる人と、同僚のことはおかまいなしに機械的に仕事をやっつける人との区別を儲けない。他人に業務を投げっぱなしの人間と自ら処理していく人間とが等しく評価される。違法行為に奔らない限りペナルティはない。そのうち、真摯に人情的に対応していた人間も機械的に染まってしまうことになる。そして、その傾向は良くも悪くも対外応対についてもあらわれる。役所の窓口における延々たる「塩対応」とでもいうべき四角四面の振る舞いはそういう無分別の作用である。
役所の世界というのは、気前よく引き受けているといくらでも仕事が降ってくるという非人情的な世界であるから、自然と業務を忌避する傾向があらわれる。そのうえ、試験の段階で上級職(幹部候補)と下級職に画然と別れた身分制社会でもあり、頑張るのは働いただけ出世が見込める一握りの高級エリートに過ぎないという諦めも仕事のモチベーションを左右する。末端の役人にとっては、事なかれ主義をとってできるかぎり業務と責任を回避することが重要であり、そのためには口八丁で拒否し、他人に横流しする技術の習得に余念がない。自分の業務範囲からは絶対に出ないで、理由をつけてあれこれ弁明した挙句、他人または他部署に引き受けさせることに最大の労力を使うようになる。まさしく末弘の言う通りの三則がここに展開されるわけである。大正時代から現代に至っても、模範的な役人の姿とはこういうものではないか。
話は変わるが、学生時代、法務省に入って収監者をいびりたいと公然と言っていた知人がいた。それを聞いてその思想の歪みにぞっとした憶えがある。映画『グリーンマイル』で、囚人の死刑を間近で見たいと望み、わざと死刑の手順を省いて残虐なものにするパーシーという看守がいたが、そこに通じる精神性を見せられた気がした。実際そのように、自らの嗜虐的な性癖を正当化するために、法令の穴を抜けるどころか積極的に法的正当性を活用する連中は、いつの時代のどこの国にもいるのだと考えさせられる。
私など十年余りも段々と法律学を研究してみましたが、法律学は依然として難しく、しかして、我々法律家にとっても、いやに不自然な、難しいことが沢山あるように思われてならない。どうも、我々の本当の人間らしいところに、何かしっくりと合わない点があるように思われてならない。そうしてその感は、時とともに段々強くなるばかりです。
上に引用した末弘の「小知恵」評論は、大正10年に行われた講演の記録である。芥川の「猿蟹合戦」と近い時期のものであることに注目しておきたい。
コンプライアンスという言葉が普及して久しい。法令を守りましょうというこのスローガンは現代においては当然のものとして理解されている。
また、戦前と異なり、国民主権が憲法に明記された現代では、世論の声がさらに重要となるだろう。末弘は当時においてすでに世論(輿論)に表明された人情の声を評価し、もっと法律に反映させるべきだと考えていた。
今の立法者――世の中で所謂官僚と称される方々――は、非常に輿論なるものを馬鹿にしておられます。ですから、法案はなるべく秘密にすればするほどいいと考えておられます。なるほど、輿論は理窟に合わないものです。しかし世の中の事をすべて理窟に合わせようと思えば、癪にさわって仕方がなくなる。できない相談だからです。しかしながら、法律は理窟だけで動くものではないと同時に、輿論といえども決して馬鹿にすべからざるものである。決して軽視することは許さざるものである。輿論は理窟の代表者ではない。しかし輿論には、何とも言われない大いなる価値がある。そこに、人情の機微に触れた、微妙な、力強いところがあるのです。
末弘はこの講演の結論として、徹底した理知による法律は必ず人間らしいものになると述べている。しかし、純粋な理知のみによって規定するのではなく、その理知は人間のあらゆる心理作用を考慮して、人間らしいものにする努力が必要であるとも説いている。ここには法律と人情との美しい調和、あるいは輿論と社会規範との美しい結合が理想的に示されている。
現代における三権分立を厳密にいうなら、立法者とは国会議員であり、官僚は行政府の一員であるから立法者ではない。しかし法律の具体案が文官たる官僚によって多く策定されるのは今なお周知の事実である。役人は小知恵を使って法案を作り、そのカバーする範囲と抜け目とをぬかりなく検証する。
他方で、官僚の最大の関心人物は国民や住民そのものではなく「住民の代表」たる議員である。議員に対して媚びへつらい、その一方では彼らをいかに出し抜き、利用するかに全ての注意力を傾ける。役人の世界ではしばしば議員からの直接要求あるいはその影響力が匂わされる事案に対して「ゼロ回答では済まない」とか、「これ以上は立っていられなくなる」という表現が用いられる。すなわちわが国にみる官僚制とは、人間の弱さと狡さ、それから自分よりも大きな力にいつでも庇護されているという心持によって支えられている部分が大きい。
これまでの言論だけでも充分に推測できるとおり、役人というものは法令を運用する立場を外側に示しつつ、極めて人情に絡めとられた関係性の上に構築されているものである。それは例えば丸山眞男が東京裁判の戦犯たちの言説を分析して明らかにしたような、戦前の為政者たちのきわめて「官僚的」な本質であるところの、政策が人間関係本位で決定されるようなあり方や、自分より上の権威に逃げ込むといった態度とも符号してくるのだろう(「軍国支配者の精神形態」)。
役人根性とは、全てを「企画」していくあり方でもある。国であれ地方自治体であれ、きちきちとスケジュールを立てて、そこを目指して業務を行うことが基本である。国民の税金を預かって運用しているのだから、その使い方の適正と予定を証明するのは当然のことではあろう。ただし、これを個人の人生にまで適用するのが当たり前になってはいささか困ることもある。例えば「ライフプラン」というような小洒落た言葉が特に違和感なく受け入れられている。人生に何があるかわからないにも関わらず、多くの人々は人生を計画し、死に向かって何をすべきかを企画している。このような契機のひとつとなるのは家族の存在であり、家族を持たない人間は無計画にのんべんだらりと生きていると見なされることにもなる。家族というのは人情と社会制度の矛盾の上に成り立っている。よって芥川の「猿蟹合戦」のように、そのバランスを失うとめちゃくちゃに破壊されてしまう。
人情だけでは安心できない。法令遵守だけではつまらないし窮屈だ。個人と社会のつながり方は今後どうなるかわからないが、人情と法令の緊張関係がのっぴきならぬものになっていく中で、役人根性が役人でない人間にも蔓延してはいないだろうか。我々は人情が希薄になる中で人情を保ちつつ、多様化によって規制が極限まで細分化されていく中で国家の規範としての法令にも背かず、複雑に絡まった縦と横の迷路のような糸の中で、導きのアリアドネを見出せるのだろうか。