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幸田露伴と中谷宇吉郎
小林勇『蝸牛庵訪問記』によると、幸田露伴は日中戦争がはじまった昭和12年の夏頃から、時勢の影響をうけて、外向けには記事を書かなかったものの、中国のことに関心が向いている様子があったという。
先生は毎日中国の古い地図をひろげて、旅行記をよんでいた。私が遊びにゆくと、中国にある珍らしい風俗や、民族の話をしてくれた。
「シナの奥地には非常に変な種族が住んでいる。なんでも身体は小さいが、山の中など自由にかけ歩いて、しかもみんなはだしで暮している。足の裏は子供のころになにか油をぬって焼けた鉄板の上へジュウジュウつけるらしい。それで足の裏が靴の裏のようになるのだ。だから岩山でもなんでも平気で歩ける」などという類である。先生の興味は確かに事変の影響を受けて、ふたたび中国にむいていたに違いない。雑誌や新聞からも中国に関する原稿の依頼が沢山あったが、先生は決して時勢向きの文章を書かなかった。
当時、露伴の年齢は70を越している。露伴老人が過去のことを思い出すなかに、雪についての思い出も出てくる。次の文章は上記の直後に書かれている。
旅行の話をたびたびした。
「年をとって昔のことを何かのきっかけで思い出すようになった。いつかも雪の降るのを見ていて、ごく若いころ雪の中を歩いたことを思い出したよ。それはぼくがはじめて原稿料をもらったときだが、なんでも母親がそのときいろいろいうので、飛び出して旅行に出てしまったのだ。中仙道を歩いて暮に木曽路に入ったが、雪があって相当寒いが、若くて元気だから、素足に草鞋。…」
翌年、昭和13年になると、露伴は中谷宇吉郎を知るようになる。雪への科学的関心から、漢字の「雪」の字源について話が及ぶあたり、詩的な感情も奔っているようで興味深い。
昭和十三年五月一日
中谷宇吉郎氏の「雪の結晶の研究」という論文を面白くよんだといい、「すっかり理解するためにもう一度読もう。さぞ助手たちがくたびれたろう。」といった。ぼくが「雪」という字のことを質問したら、「雪」という字は、はじめ「䨮」であったが、今の「雪」になったのはいつのころか、「雪」の字の下の彐は手だ。雨は手でうけることはできぬが、手でうけることのできるのが雪だ。䨮の中の丰丰は、箒だなどというのは愚説だ。といった。
そしてその翌月、露伴と中谷は初めて対面する。そして雪から始まって、中国の伝承などについて物理学的な根拠があるかどうかという質問を、露伴がいろいろとしている様もまた面白い。
昭和十三年六月二十八日 午後三時
中谷宇吉郎氏と一緒にゆく。中谷氏ははじめてだが、ぼくがいろいろ話してあるし、この間は「雪の結晶の研究」を先生は読んでいるので、中谷氏のことはよく知っている。先生は二階で昼寝をしていた。今日はほとんど中谷氏と話していた。ぼくはそばで先生が楽しそうに「種類の変った話」をしているのを見ていた。…
今日は寺田先生の弟子の中谷氏だから、先生は機嫌がよかった。まず雪の話。それから墨の話。墨流しの話。筆、紙、硯の話。雷の話も出た。
「シナの本にこんな話がありますが、今の物理学でなにか解釈がおつきでごわしょうか。」という先生独特な言葉使いが出て来て、いろいろの質問をするが、中谷氏はかしこまっていて、汗をふいていた。先生の方がむやみに威勢よく質問するという感じだった。もっとも先生の話は相変らずシナのことがやたらに飛び出すので、近代科学をやっている中谷氏には面くらう話が多かったのだ。たとえば、「熱湯を罐へ入れて深い井戸へ投げこむと瞬間に凍るということが、段柯という人の本にあるが、どうも変な話ですが。」という工合のものである。
日中戦争を通じて中国への関心が高まったが、時勢向けの記事を書かず、その代わりに、中国の奇妙な逸話について「科学的」な関心から問い詰めるというのは、一見単純素朴な興味でもあったかもしれないが、他方で人知を超えた中国文化への、露伴なりの敬意であったように思われる。また露伴のなかで、科学的なるものと神秘的な中国とを媒介しているのが、子供の頃の思い出のひとつである「雪」であるというような気もしてくる。露伴が実際に昭和十年代前半の時勢をどう見ていたかは根拠に乏しいが、時勢すなわち日中関係への憂いが、雪のなかに重ね合わされていたのではないだろうか。
※中谷宇吉郎については、過去記事でも書いたことがあります。