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鶴見俊輔の鬱病

 『戦争が遺したもの』(新曜社、2004年)において鶴見俊輔さんは、戦後に二度鬱病に悩まされて、それぞれ一年ほど引きこもったと告白している。一度目は1951年に京大の助教授として勤務を開始した頃で、二度目は1960年に安保闘争を経験した直後だった。
 二回とも、女性がらみだった。しかし痴情のもつれや愛憎のドロドロに巻き込まれたというものではなく、存在論的な悩みに取り憑かれたという類の奥ゆかしいもので、そこがなんとなく鶴見さんらしいような気がする(ご本人と面識があったわけではないが)。
 一度目は京大で勤務を始めるとともに、『思想の科学』の編集・出版を開始した頃でもあって、その編集を手伝っていた小学校卒の非常に優秀な女性に強く心を惹かれる(鶴見自身も、日本では小学校しか出ていないため、境遇的にもシンパシーがあった)。しかし他方で鶴見は、15歳以降、男女体験を持たないことを自己に課し、女性に関心を抱かないという意志を固く保持していたため、その女性にも無関心を装って近づかない態度をとった。それが、戦争中の自己認識と結びつき、内心との葛藤を生じ、そして、その心の葛藤が「自分が人間として依然として平気で生きているっていうことが悪いんだっていう、罪の意識」に苛まれ、鬱病の原因になったと分析している。また、その女性は結婚して、殺されてしまったという。そのことは「自分と一緒になったら殺されずにすんだのではないか」という鶴見の自責の念としてさらに重なった(鶴見は、その女性が殺害された際の新聞記事を購入して持っていたが、一度も見なかったという)。そして『思想の科学』の編集発行については、「彼女がやってくれていたこの雑誌のために、どんなに働いてもかまわない」というモチベーションになったとのことである。
 二度目は、結婚時だった。結婚後に妻を連れて神戸で食事をしたのち、老いた娼婦を見て、突如脱力感に襲われ「自分はこのような人と一緒になるべきだったんだ」という感情に苛まれたのだという。愛する人を得て生活の幸福に収まるということが、鶴見にとっては罪だった。鶴見はそれほどまでに、女性関係を通じて自責の念に駆られたのである。

 鶴見は「だいたい鬱病はねえ、私にとって有利なことを、自分が引き受けたことによって起こるんです」と述べている。自分が幸福になってはいけない、罰されなければならない、という感情が拭い難い根底には、幼少期からの母親の過剰な愛情があったようだ。鶴見少年は、しばしば母親から責められて折檻を受けていた。母親は圧制者であって、鶴見は母親から厳しく責められて過剰な愛情を受けたことに対して、「愛されることは辛い」ということと、「俺は悪い人間だ。だけど悪をする自由だけは保ちたい」という二つを学んだ。強い母親に育てられるということはしばしば、かくのごとく強烈な体験となって人の心に残り、哲学者に鬱病を引き起こす原因にさえなるほどの影響を残す。




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