垂直に生き、論理で乗り越えよ。
一人の学徒として、学問に向き合う態度はいかにあるべきか。
人それぞれの考え方はあるとしても、自分にとって、学問とは常に生き方の問題であり、自己確認であり、自らの来し方を反芻自問することに他ならない。すなわち、ここにこうして奇妙な回想の類や自己批判の駄文を連ねることも、これまでの経験を振り返り、自分の立ち位置を確認し、吟味して批判するという、ひとつの学問的修練につながるものだと考えている。馬鹿げた考えかもしれないが、修練の成果が出て来れば、駄文が駄文でなくなって磨かれるはずだと信じている。
そういう自分の学問の根っこには、思想史がある。思想史とは、なにか。
英国の政治哲学者であるアイザイア・バーリンのインタビュー記録『ある思想史家の回想』(みすず書房・1993年)において、バーリンは政治哲学の課題とは何かと問われ、端的に「人生の目的を検討することです」と答えている。そして、その役割を「人々が自分の信じているのは何なのか、彼らの行動が何を表現しているかを理解できるように」することだと補足している。
尊敬するある思想史の教授が、勤務大学での定年退職講義において、ご自身の研究の軌跡をテーマとして話された。もう十数年前の話である。当時すでに勤め人であった自分には、残念ながら遠方でのその講義の聴講がかなわなかったが、後日その際に配布された資料を入手することができた。そのなかに、学問に関するいくつかの自作詩が示されていた。
思想史は詩を語ることに尽きる。
詩は志だ、
純化した「抵抗のうた」だ。
思想史は詩想史として、ただ一行に結晶する。
突き立つ一点で垂直にさけべ、
その一点で垂直に生きよ!
「ラディカル(根底的)に生きよ!」
私のニックネームである「垂直」は、この詩からとったわけではないが、「垂直に生きる」という命題は、自分の抱懐する心の態度として「ラディカルに」備わっている。平らかな根拠地に根を張って、そこを基礎としつつも、平たい地表に安住せず、垂直に突き立って生きていくこと。すなわち、何事にも揺るがない自己の定立である。
そして、思想史とは詩を語ることであり、思想の流れを詩として結晶させていくという考え方。本当の想いというものは、合理的にはとらえられず、詩的に表白されるという確信は、私を「詩」にこだわらせる所以である。
思想史は美しき詩の結晶であるとしても、学術は美しいものを「美しい」とだけ述べることを許さない。その美しさを論理的な手続きによって証明しなければならない。当然、こういった詩と論理の接続は容易ではない。しかし、この節目が見えないようにつないでいく手法を探求すべく、先学たちは努力し続けてきた。
したがって、どのように優れた論文でも、必ずどこかに巧妙に隠された論理の穴(すなわち上記にいう接続の節目)があって、そこを衝けば、その論文の構造は一挙にバラバラっと崩れる。これも先生の受け売りだが、想像するだけで、なんというカタルシスだろう。まるで金閣寺に火を放つような危険な美しさが、脳裏に浮かぶではないか。論理の世界を語っていながら、なんと詩的なのだろうか。
そして、その衝くべき対象は、実は論敵にあるのではない。自分の最も尊敬し、敬慕する、偉大なる碩学の論理である。そうした偉大な論理の内部から、巧妙に糊塗された節目の痕跡を見出して、衝き崩さなければならない。
「もし学風の一貫性を主張し、それを保持したいなら、継承発展のための新たな創造がなくてはならない。それをなしうるものは内部の反抗者だけである。
偉大なる師をそれ自身の論理によって倒すことが伝統形成の唯一の道である。」
(竹内好)
この竹内好の言葉を引用しつつ、学者は書いたものが全てであって、尊敬する先達の思想を、同じ土俵で戦って乗り越えてゆくのが、思想史研究における恩返しだよと、先生はおっしゃっていた。これは、誰にとってもただならぬ困難な道であろう。
不断に学問を継続することによって、偉大な師の論理を衝く。自分のような怠け者にそんな日がくるかどうか、はなはだ心もとないが、刻苦勉励するのみである。
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