読解について
他人の文章を読むということは、他人の排泄物を有難がって悦んでいるようなものであり、そう考えると印象だけでは嫌な気分になるし、いかにも読むことが浅ましく卑しい行為であるようにも思える。
実際それは卑しい行為なのである。文字を読むことがやたらと高級で価値のあることだと認識されて久しいが、それは時間を超えてメッセージを伝えられる利便性が、いつの間にか高度な情報まで伝える役割を伴うようになった結果である。読み取るということは本来、人の付着させた体臭や排泄物を嗅ぎ、その人が前夜に食ったものを推測するに等しい。
しかし、その排泄物を楽しむ心が重要なのである。排泄物が悪臭を放つのは雑菌が付着したり腐敗するからであって、そうでない状態を見つけ出してそこに何らかの美しさを見出す心あるいは心得が必要であり、その排泄物が醜悪であったとしても、その人間の生きて来た経緯はそこに示されており、人間の秘密をさぐる情報としては極めて重要なのである。
その人を知ろうと思えばその人のもっとも汚い部分を捉えることが欠かせない。きれいに粉飾した部分だけを見ていては人間の本質など摑みようもない。表皮を外したところに人間の本質が垣間見えるわけである。
文章も同じで、人の書き残した文章から、その人の書こうとして書き得なかったもの、あるいは書いてはいけないと考えて止まったものを、文章の隙間から読み取って行くという卑しい行為を敢えてしなければならない。言葉と言葉の隙間にある、実際のメッセージを読み取るには、周辺的あるいは付随的な情報が必要となる。
その人はいったい何を大事にしていて、何を批判しようとしているのか。メッセージには裏面があり、裏面の隠された意識、その人がどういう気分でそれを書いているか、想像力と理解力を働かせて読み取る必要がある。それを読解という。読解力と一般にいうが、読解力とは実は人の心を読み取る力にも等しい部分があり、心の機微に触れることは欠かせない。
一見汚いようなものから夾雑物を剥離して、その中にある核心を覗くこと、それをやらねばならない。有名な太宰作品のフレーズをいつも思い出す。
丁寧な読解のあとには、それこそ砂金のように、陶冶されたもののあとには貴重なひとすくいが残っているものである。これになぞらえていうのならば、「読解しなければいかん」。
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