「ま、いっかー」の精神
アイルランド人の友達(キーツという名前)の家で暮らすようになり、学ぶことがあります。
彼の家には広い裏庭があるのですが、同じように隣の家にもとっても広い庭があります。
隣の庭にはすごく大きく高さが10mくらいの木があります。
先日、その木を誰か(おそらく業者)が剪定していました。
しばらくすると、切られた隣の木の枝の一部が、隣のキーツの家の庭にドカーンと落ちていたのです。
それもかなり大きな枝です。
「庭に落ちているあの枝はどうなるの?」と聞いたら「うーん、どうなるのかな?」と言ってたけど、結局そのまま。
それがかれこれ1か月くらいほったらかしに放置されたままなのです。
今もまだ放置されているので永遠に放置なのか?という感じです。
「落ちてる枝はいつ撤去されるの?」と聞くと「どうかな?ま、これがアイルランドだよ」と笑っています。
だからキーツは「ま、いっかー」くらいの気持ちなのです。
もしこれを日本でやったらおそらく隣の住人はすごく怒ると思います。
でもアイルランド人は驚くほど全然怒りません。
ボチボチいこかの精神
すぐに雨が降るアイルランド。
キーツの洗濯物は外に干しっぱなしでよく濡れていることがあります。
しばらくするとその濡れた洗濯物を洗濯し直しているけど、また外で濡れています。
それを何回も何回も繰り返して、私は「何回同じことをしているだ?」と疑問に思うけど、のんびり屋さんのキーツは「あらあら濡れちゃった」くらいの気持ちで特に気にしてないのです。
単にキーツがぐうたらなのかもしれないけど、そののんびりした気持ちが私は少しうらましかったりします。
こういう姿をみていると、「ああ、人生なんてこんな感じでいいんだ、私は今まで何にそんなに行き急いでいたんだろう」とすごく思わされるのです。
いつもきっちりで先を見越して行動する日本人。
そして何かハプニングがあるとすぐクレームを出す日本人。
(キーツがたまたまそういう性格なのかもしれないけど)とにかくテキトーでマイペースで、おおらかすぎる気持ちを持っているアイルランド人。
全く違いすぎて、その生き方はとても参考になります。
寛大すぎるアイルランド人
私が家を探しているときも「空いている部屋があるから僕の家に住む?君のお母さんも娘さんもみんな住んでいいよ」と快く言ってくれました。(しかも私が帰国するまでの2か月間の家賃もいらないと)。
そして今私は彼の家を自分の家のように使わせてもらっています。
たとえば洗濯をするときに「洗濯機使っていい?」と聞くと、「そんなことを言う必要はないよ、自由に何でも使ってね」と言ってくれます。
お風呂も乾燥機も食洗器も部屋の模様替えも何でもかんでも。
私は遠慮して「使っていい?」とつい声をかけるけど、そのたびに「いつでも何でも自由に何でもしていいからね。ここは君の家だよ」と。
そして「私だけでなく、母や娘まで受け入れてくれてありがとう」と言うと、「そんなことを言う必要はないよ」とにっこり笑って言ってくれます。
もし私が逆の立場だったら、ここまで寛大な気持ちでいられるかな?と思うのです。
そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないという気持ちになるので、私はお礼に部屋をめちゃくちゃ掃除して、足りない物を購入するなどして、きれいな部屋を完成させました。
そして「私が去ったあとに賃貸の部屋として貸し出せるようにしよう」と提案しました。
すると「ありがとう。あなたはビジネスの天才だね」と笑っていました。
キーツには下心も野心もなく、単にお人よしすぎるくらい優しい人なんだと思います。
まるで家族
それはキーツだけでなく、キーツのお姉さんや叔母さんも姪っ子さんもとっても優しくて、私を家族のように受け入れてくれます。
おしゃべりをしに毎晩キーツの家にやってくるお姉さんは、私におすすめのお店をたくさん教えてくれたり、私の代わりにお店の予約を電話してくれたり、クッキーを食べながら「今日は何してたの?」というフツーの会話をしています。
それはまるでもう家族の一員のようです。
ついでに言うと隣の家のパトリシアというおばさんもパトリシアのお兄さんもです。
近所の人たちはすでに私がキーツと暮らしていることは知っているようで「こんにちは!元気?」「ダブリンを気に入ってくれた?」みんながみんなとっても優しく、私を見かけると声をかけてくれます。
あまりにフレンドリーすぎて驚きます。
もし日本で私の家にある日突然、知らない外国人がやってきたら、近所のみんなはフレンドリーに声をかけるかな?と思ってしまいます。
おそらく日本人は「誰だ?あの外国人」と思うくらいで、声をかけたりはしないと思います。
アイルランド人の家族の温かさ、ご近所さんの温かさに触れていると、昔で言うサザエさんの時代のような温かさを感じます。
そして同時に、その温かさは今の日本人が失ってしまったものだと気づかされるのです。