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アセクシュアルとクエスチョニング①

多様性やLGBTが合言葉やプロパガンダのように叫ばれる昨今、自分の性自認について人生で初めて向き合っているような気がする今日この頃。

友人と呼べる存在が少ない私の友人にも、同性愛者の女性がいる。
私の無遠慮で偏見的な発言のせいで目下距離感が断絶され、友人と読んでいいかも曖昧になってしまって早くも一週間が過ぎようとはしているが。
自分の愚かさに後悔で2日は食事が喉を通らず、嘘偽りなく自分の非を謝罪したためたLINEを送りはしたが、後日連絡するという一報を残して未だ彼女からの明確なアクションはない。
加害者からの謝罪とは自己満足であり、それを許すか許さないかは被害者にしか裁量は許されていないと私は思っている。
私はギロチンの紐を握った彼女の判断を、ギロチン台に横たわりながら待っているが余りにも長いので若干忘れかけている。申し訳ない。人間とは忘れるから生きていける生き物なのだ。
彼女が自らの過酷な運命から抜け出し、自らの性自認を経てパートナーを見つけるまで見守った仲だったが(なんの因果か二人の間に挟まれて最終的に仲人のような立場になってしまった)果たして昔のようにまた友人に戻れるだろうか。

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