社長「この会議は無駄」 ≠ 社員「この会議は無駄」
その人の立場や思想によって、同じ質問に対する答えが、まったく変わってしまうものって沢山あると思うんです。
同時に「同じセリフ、発言」なのに、意味すらまったく違うこともあると思います。
もう募集は終わってしまったのですが、このテーマで記事を書くことのきっかけとなったリンクを貼付けておきます。
この記事です。
最近は、COMEMOに〆切を意識しながら、無理矢理乗っかるのはしんどいので、ゆるーくテーマだけお借りするくらいでちょうどいいかと思っています。
まあ、ともかくこの記事は結構面白くて、記事内にある、
この「会議とはいったい何でしょうか」なんて問いかけ、もはや哲学的であり、究極の質問と化していると感じます。
では、いつものごとく脱線をはじめにしながら、記事を書き進めたいと思います。
そもそも1人でやるなら会議など存在しない
私には、ある種の2面性があるのだと思っています。
それは、一つは「クライアント先の会議に参加する自分」であり、その場合は多数の会議に参加することもありますし、自分から会議を開催することも当然ながらあります。
ですが「コンサルタントとしての、自分自身のこれからの戦略を考える」という、自己完結な話においては、
そもそも誰かと相談することもありませんし、そこに誰かの承認を得る必要もありません。部下もいませんので、共有や指示をすることもありません。
「会議」自体の意味の中に、【関係者が集まって】議論する、という要素があると思いますので、1人ならば会議になりようがない、が正しいかもしれません。
好きな例え話「豆腐屋さん」
これは、私の先輩格の方がよく話される例え話なのですが、町にラッパを吹きながら豆腐を売りに来る、あの豆腐屋さんです。
もしかすると、今の都会に住む若者には、あまり馴染みが無いのかもしれませんが、昨年移住した我が町には今でも時折ラッパの音が響き渡っていて、懐かしい感じがあります。買ったことはないんですけど…すみません。
(そこそこ首都圏に住んでるはずなんだけど)
その先輩のお言葉をお借りするのであれば、要約すると、この豆腐屋さんは、
自分でどのエリアに売り込み行くか決める
自分で何時くらいに、どのエリアを回るか決める
自分で今日売りたい数と仕込み数を決める
自分でそのための原材料を手配する
自分で豆腐を作る 作る時間を捻出する
自分で売りたい価格を決める
自分で売りに行く、接客もする
自分で顧客作りに励む
自分でどんな料理に使うか提案する
売れ残ったら自分で反省する
その反省を明日に活かす
もっと本当は細かいでしょうが、こんなところでしょうか。
経営戦略、ブランディング、マーケティングから、開発・生産・販売・顧客管理などなど、すべて自分でやる。ということだと思います。
ともかく、ココでもこの豆腐屋さんは、誰かと何かを協議する必要も無いですし、合意形成も必要ありません。
指示する相手もいませんし、すべてを自分で初めから最後までやり切る必要があります。
ある意味、商売の究極のカタチだとも思っていたりします。
分業化するから、会議が必要になる
とはいえ、1人でやっているビジネスでは規模感は大きくなりません。
上記の豆腐屋さんが、1日にいくら売るのかは存じませんが、おそらく年商で1億を超える、は結構難しいと思います。
まずまあ、年商10億のビジネスでも、1人で成立させることはおそらく難しく、家族を巻込むか、社員かアルバイトかの違いなどはあるでしょうが、そこには必ず自分以外の誰かと一緒に事業を運営する必要が出てくるのだと思います。
豆腐屋さんに限らず、何らかの製品・商品を売るビジネスの場合は、「私はモノを作る人」「私はそれを売る人」「私はそれを宣伝する人」などのように、分業が進み、
さらには、その考え方で大丈夫なのかを、責任を負いながら意思決定する「決裁者、承認者」が生まれることになります。
ですので、冒頭の記事にあった【会議とはいったい何】という答えは、『ビジネスを分業で運営するなら、避けては通れないもの』という側面が一つあるのだと考えます。
ようやく話が戻ってきます
タイトルにさせて頂きました、
社長「この会議は無駄」 ≠ 社員「この会議は無駄」
これはコンサルタントとして、支援先の企業において、やたらと長く、何だかすっきりとしない会議に参加した後に、それぞれから聞こえてくる言葉です。
とはいえ、簡単に、
みんなが「この会議が無駄」だと思っているなら、やめちゃえばいい。とはならない理由があります。
それは、それぞれの立場においてのこの発言の意図がまったく違うからです。
いくつかのケースを、小見出しにて以下に書いてみたいと思います。
ケース1「それで本当に売上は上がるの?」
社員側のアクションプランを、経営側が聞いた時に信憑性がなかったり、事実を正しく捉えていなかったり、分析が甘かったり、具体性に欠けていたりと、
様々な理由で「何だか、わざわざ時間を取って話を聞いたものの、そんな事前準備の質が低い内容を聞いても、まるで意味がない」と思ったときに、この会議(のやり方では、時間とリソースの)無駄、と経営側が思っているパターンです。
ケース2「何も決まらない」
集まって、各自が好き勝手な発言をしているものの、アクションプランが特定されておらず、(この時間の意味は特にないので)無駄、と全員、もしくは数名が思っているパターンです。
また、特にこの場で「何らかの理由で」発言をしない人間も、ただ話を聞いているだけの時間なので、無駄だと思っています。ただしこの場合、発言すべきなのに、発言しない人間ならば、より無駄度が高まりますね。
ケース3「目的が報告することになっている」
これは、経営側にも社員側にも、どちらか、もしくは両方において問題があるパターンですが、
社員側からすると、(報告することだけが目的の会議ならば)無駄で、忙しいし、実務的なことに時間を割きたい、という思いと、
経営側からすると、(報告だけを聞きたいのではなくて、その結果、今後どうして行くのかの案が出ないならば)無駄、という思いが、
それぞれ交錯しているパターンです。
ケース4「判断が先送りになる」
私の今の支援先には、あまり見られない現象ですが、(せっかく提案しても、ズバッと決裁されないので)無駄、というパターンもあるかと思います。
後日、個別で相談、みたいなことになるのでしたら会議を設ける必要はありません。
ただ、側面として「決裁が出来るだけの情報が無いから、判断のしょうがない」という、ケース1に近いパターンもあると思います。
ケース5「形骸化している」
あまり難しい言葉を使うのは、本当は性に合わないのですが、ただただ集まることが目的になってしまい、中身もなく、カタチだけのものになっている場合にも無駄という思いは生まれるかと思います。
これは、上記ケース1~4と複合していることも多いでしょうか。
その会議が「無駄」だと思うのならば
上記のような、ぱっと思いつくケースでも5つもありました。
実際には、もっともっとあると思います。
この記事でお伝えしたかったことは、要するに「その会議が無駄」だと思うならば、その理由を、社員側も経営側もお互いに伝えることが必要なのだと思います。
ほとんどのビジネスパーソンは、はじめに出した例え話のような「1人きりの豆腐屋さん」ではないので、どこかに所属したり、誰かと関わっている働き方をしている限り、絶対に会議は避けられないものだと思います。
一番よくないのは、心の中だけで「この会議は無駄」だと、ぼやいていること。愚痴としてだけつぶやいていること。
これに尽きるのではないでしょうか。
次によくないのは「この会議無駄だから、とにかくやめちゃおう」ですね。
世の中には、本当に必要の無い会議もありますので、やめることが最善手の場合も勿論ありますが、
やめる理由が、理路整然と明確に表現できないならば、やり方を考えるべきであると思います。
集まって知恵を出し合い、お互いを尊重したり、良い影響を受けたり、鼓舞したりされたり、一心同体なカタチになったり、バックアップ体制が作られるようなことは、会議がなければ難しいです。
そもそも日本に特化したカタチでこの話をすると、合意形成・相談・協調的・根回しを重んじる文化ですからね。なので結構深いテーマだと思います。
と、今更ながら募集が終わってしまったCOMEMOに対する記事を書いてみました。ちょっと読んでもらえる機会という意味では勿体なかったかも…
コジマサトシ/トナリコネクト