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浪人大学生の就活戦記 Part1

こんにちは。となりに大学生です。

現在大学4回生、英語学科に所属しながらテーマパークでのアルバイトをしている私ですが、ほんの数ヶ月前まで就活に追われていました。かなり辛い時期ではありましたが無我夢中で過ごした半年間。


今回はそんな私の就活記についてお話ししたいと思います。


しかしながら、就活を語る上で欠かせないものの一つに「過去の自分」があると思います。

そこで!今回はそんな「遠い昔のお話〜大学入学」にフォーカスしてお話しいたします!過去の自分がどういった人間だったのか。どんな夢を抱いてきたのかについて話しています。

もしかすると、途中で私のことが憎たらしくなっていくかもしれません笑


なかなか「しでかしている」のですが、温かい目で見ていただければと思います。また、この記事の続きは今後投稿していきますので是非楽しみにしていただければと思います!

それでは、スタートです。


戦場に行く前の話


<保育園〜小学校編>

就活という戦場に足を踏み出す前、私は就活をするのかしないのかを迷っていました。

「は?しろよ」

となる方もいるかもしれません。
しかし、私には就職とは別にもう一つのやりたいことがありました。そして、そのとある夢を持つ前にもう一つとある夢を持っていました。それは保育園の頃まで遡ります。

当時私は絵を描くことが好きで、小学生の頃にはいくつかのコンクールに参加しては度々表彰されていました。暇さえあればお絵描き・ラジコン・レンジャーごっこをしていました。その中で唯一ある種の”向上心”を持って取り組んでいたのが絵を描くということでした。

それは、いろんな人(それは親や友達だけでなく、保育園の先生やコンクールの方など様々ですが)に褒められてきたからだと思います。「もっと褒められたい」「そのために上手くなりたい」と力を注いでいました。

そして、そんな私の前に”向上した先にあるゴール”のような存在が出現しました。それは、ジブリ映画です。

凄まじい量の背景を高クオリティーで描きまくり、しかもその背景が数秒間しか映らない映画を見て、私は正気の沙汰ではないと思いました。当たり前ですが、当時の私にはあのクオリティーの絵を描くことは愚か、絵をあんなにたくさん短期間で描き上げることなど全く不可能の領域です。


初めて見た映画は「天空の城ラピュタ」でした


きっとこの絵も数秒間しか映し出されてないわけですから
考えられません…笑

そしてジブリへの尊敬の意はさることながら、その敬意のベクトルは段々と宮崎駿監督へと移っていきました。

いつしか私は「こんな絵を描けるようになりたい!」という夢を持つようになり、気づくと次は「ジブリに入社して宮さんと映画を作るのだ!!」という夢に変わり、最後には「映画監督に、俺はなる!!!」という夢になっていました。

小学校に入学してからは絵を描くことをやめず、ひたすら教科書やノートに落描きを描き続けていました。理科の教科書に出てきた試験管やビーカーのイラストを模写したり、国語の教科書に出てきた「大造じいさんとガン」のイラストをひたすら練習したりしていました。

「もののけ姫」を家で見た時には、その中に出てくる樹木の絵に圧倒され、毎日と言っていいほどノートの片隅に木の絵を描いたりもしていました。

しかし、小学4年6年の頃に二度の挫折がやってきました。


<挫折①>

一つ目の挫折は2分の1成人式でした。

式では自分の持っている将来の夢について、模造紙に文章や写真をつけて発表することになっていたのですが、私の夢はもちろん映画監督です。そして、映画監督になるためにはやはり絵が上手くなければいけないとわかっていました。

しかし、図書館に行って「映画監督になる方法」を探しても一向にその本は見つからず、インターネットにも多くは書かれていませんでした。書いてあることは「絵を練習しなさい」と「そう簡単にはなれません」という類の内容ばかり。

結局私は自分自身で「映画監督になる方法」を考えることにしました。

とはいえ、当時まだ小学生の私にはいわゆる「正規ルート」を導くことはできませんでした。


小学校卒業

中学校卒業

高校卒業(どっかで働いてお金を稼ぐ?)

絵の学校にいく??

ジブリ入社???

映画監督に俺はなった!!!


こんな感じでした。

間違ってはないのかもしれません。
私は2分の1成人式で、このルートで映画監督になるということをクラスの前で発表しました。もちろん大声で。

本番の日、教室の後ろには生徒の保護者もずらっと来ていました。参観日だったのです。もちろん私の母もきてくれていました。他の生徒の将来の夢は「宇宙飛行士」「パティシエ」「電車の車掌さん」「弁護士」など様々でした。(時代を感じますね笑)

私は自分より前に発表した生徒たちを見ながら、どこかで「勝ったな」と思っていました。というのも「ジブリ社員」「映画監督」というワードは「宇宙飛行士」をも上回る、かなり少数派かつレアな職業だと思っていたからです。

「見ててね、ママ!」

ついに私の番がきた時、心の中でそう叫びました。私は天にも登る気持ちで教室の前に立ち、発表を終えました。

しかし、家に帰って最初に母から言われた言葉は思っても見なかったものでした。

あんな発表して、恥ずかしくて仕方がなかったわ!!


びっくりしました。言葉が出ません。なぜ?アニメは恥ずかしいものなの?ですが彼女の論点の肝はそこではありませんでした。


「何がすき家で店長よ!馬鹿じゃないの!」


そう、

私は当時小学4年生。アルバイトのアの字も知りませんでした。でも、何かお金が必要だということはわかっていました。でも、店員と店長の違いはよくわかっていませんでした。ただ、国道沿いのすき家に貼ってあったポスターに「お金を稼げる」という類の内容が書かれていたのは知っていました。

だから、「絵の学校に行くために、すき家の店長になります!!」

と、クラスの生徒、その保護者の前で、堂々たる態度で私は述べていたのです。

今となればもちろん母の気持ちがわかります。彼女は決してアニメやすき家を馬鹿にしていたわけではありません。「すき家の社員→ジブリの社員」とも取れる私の発表に度肝を抜かれ、いてもたってもいられなかったのです。

しかし、私には彼女の言葉がグサグサと刺さりました。

なんと言っても当時小学生だった私は社会の常識の大半が親によって構成されていたからです。さらに、相当恥をかいたためか、母から最終的には「あんたにジブリは無理だ」と言われてしいました。「ジブリに行くような人はもう今の時点で絵の学校に通っているのよ」とも言われました。

私は「あぁ、そうだったのか」と、

私の社会の半分以上を形成する親に言われたその言葉を受け止めるほかありませんでした。私はこれまで行いの良し悪しや、可・不可を親やその他の大人から教わってきました。

母はなんでも知っているのだから、私がジブリに入れないのは本当だと。他の人はもう絵の学校に行っているのだと。「私の負け」なのだという現実を突きつけられた気がしました。


<挫折②>

とはいえ、私は絵を描くことをやめませんでした。

小学五年生に上がった頃、私にはその後の人生に大きく関わる友人に出会いました。彼は頭がよく、器用な上に、誰にでも愛されるようなやつで、おまけにピアノも弾ける”すげーやつ”でした。

そして彼の周りにいる他の友達とも遊ぶようになったある時、パラパラ漫画を描くのが流行っていました。

さらには3DSのうごくメモ帳、通称「うごメモ」が流行った時期も重なり、私は瞬く間にパラパラ漫画にハマりました。

そのため、これまで落書きだらけになっていた国語の教科書は再び私の餌食となりました。というのも、国語の教科書は小学五年生から分厚くなり始めたため、何十枚も絵を描くパラパラ漫画にはこれ以上なく最適だったのです。

小学六年生になると私はその”すげー友達”と共に広報委員に入りました。理由は単純。一番楽で楽しいからです。

お互い目立ちたがり屋で、広報委員は放送室という憧れの教室に入る権利も持っています。放送室に初めて彼と入った時にはなんともいえない高揚感がありました。そして、掲示物の張り替えも行い、彼と共に校舎内を走り回りながら楽しく掲示物を張り替えていました。

しかしある日、再び悲劇が私を襲いました。

2013年9月、放課後にわたしたちは変わらず掲示物の張り替えをおこなっていました。新しいポスターが入った段ボールからポスターを取り出した時、私は一瞬喜びに包まれました。

「え!!宮崎駿だ!!」

「え?おぉほんとだ!すげえ、偶然じゃん!」

「うわぁこんなことってあるんだ、先生に言ったらポスターくれるかな?」

そう言いながら私はポスターのタイトルに目を向けました。するとそこには



『「今回は本気です。」宮崎駿監督引退』



と書かれていました。

頭が真っ白になりました。また一つ、私の社会が、当たり前がなくなったような感覚に陥りました。彼の新しい映画がもう見られない社会がこの先待っているのだと。彼と仕事をすることはもうできないのだと。

家に帰ると、いつも見ていたEテレをそっちのけでニュース番組にチャンネルを合わせました。彼の引退会見は昨日あったのだとわかりました。その会見から1日経っていても、ニュースでは大々的に彼を取り上げられていました。彼の、宮崎駿監督の存在の大きさを改めて実感しました。そして、そんな宮崎駿という人間が作る映画がもう見られないという現実を目の前で突きつけられました。


「今回は、、、本気です笑笑」


テレビで宮崎駿監督はそう言いました。
今まで見てきたドキュメンタリー番組のどんなカットよりも無邪気な笑顔と共に。私は耐えられませんでした。

「何笑ってんだよ!何が本気だよ!!」
「もうあなたの映画が見られないだなんて、、冗談じゃない!!」

寂しさと悔しさと、そしてこの事態を変えられない自分の非力さに、気づくと涙が溢れていました。そして、私の「映画監督になる」という夢への道でもある「宮崎駿監督とアニメを作るのだ」という道はあっという間に崩れ落ちたのです。

なんて身勝手で、ひ弱で、他責に満ちた人間の挫折でしょうか。

でも、私にとってこの経験はこの後の人生を良くも悪くも変えていきました。


中学二年に差し掛かる頃、私には新たな夢ができました。


<中学校〜大学入学編>

中学生になってできた夢、それは英語教師になることでした。

理由は単純です。

英語が好き(得意)で、教えるのが好きだからです。

私は先ほど出てきた”すげー友人”と共に地元の塾に入塾しました。小学5年の頃に入塾し、その頃から英語教育がスタートしていたため、中学に上がった頃には周りよりも英語ができる状態にいました。

ベースで頭がよかったその友達以外にも中学には頭の良い人がたくさんいました。しかし、彼らにも英語でなら勝てると言えるくらいには英語が得意でした。

英語を教えてくれた先生方にも恵まれました。塾で英語を教えてくれた先生は英語の発音とスペルの法則性を教えてくれました。彼のおかげで一気に英語が得意になりました。学校の先生やALTも英検の勉強や問題に対する質問に親身に乗ってくださりました。

中学3年の時に担任をしてくれた先生は、英語の先生だったのですが、授業以外の部分でもあらゆる相談に乗ってくれる大変熱のある先生でした。

私はいつしかそんな教員になりたいと思い、高校では教育学部のある大学を目指すことにしました。

しかし、私は

「(教育系の大学に)行きたーい!なりたーい!」

とはいうものの、勉強はおろか大学について調べることもほとんどせず、今となれば必然的にと言っていいほどですが、浪人することになりました。両親や先生方、そして共に大学生になるはずだった友人たちには大変な迷惑と残念な気持ちを与えました。

この時私はその結果を誰のせいにも、なんのせいにもできはしませんでした。全ては自分のせいでした。自分の馬鹿さが露呈し、全く呆れてなりませんでした。

それでも私はなかなか勉強に身が入りませんでした。


「自分の興味があることしかできない」


という特徴を持っていたからです。
もっというと


「自分の興味ないことはやれない」ヤツでした。


結局、私は予備校代こそ自分で半分賄っていましたが、第一志望の大学に入ることはできませんでした。

しかし、現在通っている大学への入学を機に、そして就活という節目を機にそんな憎たらしい私は大きく変わっていきました。


<次回予告!!!>

「新たな夢」
大学入学後間も無く、またまた新しい夢が芽生える!?

「今回は本気です」
二つの夢、どちらを追っていくのか、迷い、定めろ!!

「戦場に立つ」
ついに戦場に立つことにした浪人大学生。そんな彼に再び試練が巻き起こる!!

以上3本立てでお送りいたします!

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