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#2 人生の本源的価値とは何なのかー現実と夢の中で考える

はじめに

最後の投稿から1年程経った今、私は20歳という節目を迎えた。そして、日々実感しているのがいまを過ぎ去っていく時間の早さである。そして、正直に言ってときどき自分がこの人生で何に向かっているのか分からなくなることがあるのも事実である。

私は高校1年生のときに明晰夢を見れるようになり、体外離脱(OBE)を体験してから、①自己のスピリチュアリティ(魂の格)を高めること、その一方でそれとは真逆である、②この混沌とした資本主義経済に身を染めて人間であろうとするペルソナを磨くことを続けてきた。

当時の自分がいまの自分を見て何を思うかは分からないが、間違いなく言えるのは私はまだ未熟であり、だからこそもう一度、今の自分自身の視座と「自分自身の人生哲学」をこのように文章として再整理すべきだということの様に思える。最近、生成AIの台頭で企画書や記事を自分で書くということはめっきり減ったのだが今日は久々にテキストに自分の魂を載せたいと思う。

※今後は自分で再びキーボードを頻繁に叩いて、自分の思想を活字で残していきたい。限りない時間の中で自分の当時の思想をアーカイブするのは貴重だと思い始めたのである。


「人生」は2種類のモードでプレイできる

上述したように、私は高校生の頃に本格的にスピリチュアリティに興味を持った。それまでも、魂や波動、宇宙の法則などについては否定的ではなく中立的な立場(あれば面白そうだなあ程度)だったのだが、実際に自分の身体の中に魂があり、それがシルバーコードと繋がれていることを体験した後は、常にスピリチュアリティの真髄を探求してきたように思う。ただ、知識をインプットするだけでは大変つまらないので、積極的に実践もした。具体的には、体外離脱(OBE)を出来るようになったし、想念の世界の広大さも意識がどんなに離れていても続くことも知った(過去投稿参照)。

そこから、私がいま辿り着いている人生哲学として人間の地球上での生き方を2つに整理したい。2つともそれぞれに大きな価値があるのだが、少し深く考えていく。これが私の能力でいま考えられる「人生哲学」の全てである。

モード1: 人間の様に生きる生き方

1つ目の生き方は、実体としての身体を持つ人間としてエゴに支配されありのままの人間の様に生きることである。まず、エゴに支配されることは全くネガティブなことではない。大金を稼ぎたいだとか、有名になりたいとか、要するにあれが欲しい、これは嫌だという青年少女の様なわがままな感情は非常に素晴らしいものであり、それこそが人間として生きていることの証明でもある。基本的にほぼ全ての人間は死ぬ直前までこのエゴに支配され続けながら、自分は全体ではなく部分の存在であり、そこにのみ責任が生じるものとしてワンネスを理解しないまま一生を終える(死後もこれを理解できない者も一定数いるだろうが、別にそれ自体はどんな存在も悪いと思われたりしない。全ての思想は平等に扱われそこに上・下などという人間が好きなマウント図は存在しない)。

それこそ、私の好きな詩人のイエーツが過去に語っている様に思う。

In Dreams Begin the Responsibilities
(実行していなくとも)夢で考えたときに既に罪は始まる

W. B. Yeats's 1914 book of poems, Responsibilities

人間はもともと、その実体である身体に魂を載せる設計である以上、本来的にエゴに支配されるようにデザインされたように見える。なぜなら、肉体という物理的な身体に身を置くことそれ自体が、エゴを持つことを強制されているようなものだからだ。エゴは常に自分に問いかけ、ときに幸せをもたらし、ときに自分を追い詰める。その感情は常に揺れ動き、私たちが錯覚している時間という概念の中で止まることは決してない。

時間は左から右に教科書の様に流れ、そのエゴに身体を連れて行ってもらうのである。そこでは、さまざまなエゴによる体験(仕事・恋愛・人間関係・お金)がハッピーなこともネガティブなことも「色とりどりのチョコレートボックス」の中身からランダムに1つずつ取り出される如く一生起こり続ける。その中で人はこの世界について多くを学ぶ。世界というのはどの様な形であれ結局は自分自身であるから自分について学んでいくのである。

ここでは、様々な体験が人間目線では幸せカテゴリー、不幸カテゴリーに分類されるとして、そちらの価値が高い低いなどの評価軸は宇宙的には存在しない。幸せと不幸の2軸で価値付けを行うのは我々が地球上の価値観に支配されているからである(これは地球にいる多くが無意識的に共有している広義のエゴでもある)。

幸せも不幸も一度肉体を持たなければ、体験できない非常に貴重な地球限定のアトラクションである。だから、全ての体験はそれが幸せであれ不幸であれ魂を成長させる上で価値がある。魂の成長は魂自体の本質的な成長(つまり、部分ではなく全体になり、より深いレベルで宇宙を理解できるようになる)と魂自体の色が重ねて塗られる(多くの経験から魂がポジティブ・ネガティブを問わず上書きされていく)の2パターンに分類できるが、この生き方は後者に当たる。一方で究極的にこの2パターンのどちらが正しいかということをハイヤーセルフは意識していないように思う。要するに人間として部分を意識しやすい設計にしてるけど、あとは好きに創造してくださいねということであろう。

非肉体的意識領域(肉体が無い状態)では自分の想念のみですべてが創造される。つまり、内面であるインナーマインドだけで世界が作り出されるのである。この感覚は一度でも明晰夢やOBEを体験すれば感じるだろう。一方で、人間として生きている間、肉体的意識領域では強制的に地球の物質的側面が強い箱庭に放り出される。だから、もともとインナーマインド重点ではなく(仮にインナーマインド重点ならわざわざ肉体を持つ必要が無い)、アウターマインド(自分の周りに目に見える形で起こっているイベントを魂が錯覚して受動的に学ぶマインド)重点でできている。だから、○○があるから幸せ、無いから不幸という自分以外の要素に幸せ・不幸のラベルを貼る生き方が普通なのである。この場合、自分が創造していることを理解するまではほぼ自動的に人生が進んでいるということだろう。

偉そうに解説している私も生まれてからずっとエゴに支配され続けている。意味のない場所でエゴに苛まれて、失敗したことも自分を捨てきれずに部分を前に強く押し出し、強引に道を拓いたこともある。つい最近も仕事で部下と揉めにもめたし、仕事や人間関係が上手くいかなくて反省することは日々沢山ある。エゴによって成功したこともあるし、失敗を重ねたこともあり幸せも不幸も色とりどりに20年かけて経験してきているのである。

モード2: スピリチュアリティに沿う生き方

2つ目の生き方は、スピリチュアリティの基本を忠実に守って生きることである。

スピリチュアリティの基本とは、この世の中は全体であり、部分ではないこと(ワンネス)を理解した上で、下記3点に忠実に沿って生きるということである。

①どんなときでも善行(ポジティブエネルギー)で尽くす
(なぜなら、それは自分自身を愛しているということだから)
②他人を蹴落としたりしない
(なぜなら、競争の原理はエゴの上にあることだから)
③全ての存在を認めて、決してネガティブなエネルギーを放出しない
(なぜなら、醜く見える存在・出来事も自分自身の宝石の一面であるから)

※エゴは正確に言えば、地球上ではデフォルト的な存在だが、宇宙原理とは背く要素が強い(だが、別に宇宙はどちらでもOKだと伝える。この世に宇宙より寛容な存在はないだろう)

たしかに、全てが正論だと思うし私が学んできた内容、体験して理解した内容と共通する。これらをしっかりと忠実に実践できれば、間違いなく魂の格でいえば極めて高い人であろう(この高・低という考え方自体がエゴであるが)。

これは言い換えれば、全体(ワンネス)という考えに身を置いて自分を可能な限り捨てて全体を生きることである。

瞑想の世界では、”Lose Yourself (自分を失いなさい)”というキーワードがよく使われる。ただ、他者に善行を尽くして、常に波動の法則を意識してクリーンな人間として生きるのだ。これは競争や幸せ・不幸という人間のエゴに身を置くのではなく、如何にして心の中のワンネスを感じられるかに集中する生き方だ。言い換えれば、これはアウターマインドではなくインナーマインド重点ということである。他人も自分であるということを意識せずとも無意識的に感じられるような状態で常に慈悲に溢れるような生き方を行うということであるが、これは晩年のブッダの様なライフスタイルである。あらゆるエゴを捨てて、自分自身の中にある宇宙に集中する―これができたとき、人間は脳内オーガズムともいえる境地に辿り着くのだそうだ。

モード2の生き方は完全に次元の違うレベルの生き方だろう。エゴから真に開放されたとき、人は初めて自由になるはずだ。大金でスーパーカーを買うことの自由とこれは全く異なる。お金もいらなければ別に誰かに依存する必要もない。ただ、ここで疑問が出る。人間という身体に閉じ込められてエゴに支配されるのが基本系だとしたら、モード2の生き方をいまの時代に実践できるだろうか?私はいつかこの生き方を試すべきなのかということである。

ちなみにワンネス的な感覚は、深い瞑想や明晰夢、OBEなどのある種の神秘的な体験をしているときは、少しあるのだが「人間として過ごしている」とすぐエゴに引っ張られてしまう。つまり、モード2のスピリチュアリティを現実世界で体現するためには、エゴを捨てて出家するような覚悟が必要なのだろう。

ただ、可能な限り努力をすることはできる。例えば、私はどんな人でも自分と縁のあった人には最大限の感謝と力添えで返している様に思うし、かなりスピリチュアリティに沿ってクリーンに生きてはいる方だとは思う。私自身もこのような生き方を目指したいと数年前までは思っていた。

ただ、ビジネスにのめり込みはじめてから、それに相反する動きを成功するためにしなければならないと思い知らされた。これまでの考えに質問攻めをされたのである。

ビジネスの中でジレンマに挟まれた19歳の自分

Every day after day another question for you. If I could go back in time I’d find a reason for you. The more I seem to try another secret lies
毎日、日々が過ぎるたびにまた君への疑問が生まれる
もし時間を戻せるなら、君に理由を見つけてあげるのに
どれだけ努力しても、新たな秘密が生まれてしまう

Strange Talk - Cast Away

はじめてのビジネスー現代社会のエゴと相反するモード2の生き方

大学2年生になってから、実務領域で資本主義経済の中で本格的に働きはじめた。もともと、会社や経済などには興味があったため実務領域で力をつけていきたいと考えていたのである―ビジネスとスピリチュアリティの相性の悪さに気づかされたのはそのときだった。

大手のベンチャーで営業とマネジメント等に従事させられ、大学には週に1日しか通わずにフルタイムで仕事に打ち込んだ。当時、19歳だった私は周りから運よく可愛がられた。日々、数字を追うのが楽しかったしそこから学ぶものも多くあったのは事実である。

一方で当初はどこかすごく違和感があった。当時のその企業の事業内容と世の中にある他業種も含めてビジネスという全体を色々とリサーチをしていると、「この世はスピリチュアリティを逸脱したビジネスがほとんど」であるということが分かったのである。社内では少しグレーな金稼ぎのスキームを平然と社長を含めて語る(だが、ベンチャーは完全にクリーンなビジネスである場合、大手の参入障壁が低いためすぐに潰されてしまうのも実情だ。だから、0→1の場合はグレー領域から事業を展開させることが教科書的に薦められることもある)。

企業の10年生存率は10%以下である。大手でも中小でも何らかのダーティーなことをしないと生き残れない、つぶされてしまうという緊迫した世界である(特に毎日生き残りをかける生まれたてホヤホヤの企業は特にそうせざるを得ない)。その競争という価値観の中で日々騙しあいとエゴに溢れた取引が行われる―そんな世界であった。自分自身もそこで働く一員として自分がしていることの全てが正しいことでは到底ないと思い始めていた。

「ビジネス」という名の付くものにはどこかしらに悪魔が住んでいる。

①たとえば、あなたはユニクロの服を平気で買うが、それがインドネシアの工場で月収2万円の過酷な人権のない労働環境の中で作られていることを知ったらどう思うか。あなたには責任が無いと胸を張って言えるだろうか。

②たとえば、あなたが大手の証券営業マンだったとして、知識のない高齢者に自分の親には到底勧められないETFを買わせるとき、その行為にプライドを持てるだろうか。(現代の証券営業は業界大手でもこれが基本系である)

→これらはスピリチュアリティを逸脱して自分自身を不幸にしていないか?

(いま、更にビジネス経験を積んだ上でいうとこの世のほとんどのビジネスはこの様に本質的な他者の幸せを何らかの形で阻害するものである)

私は大手SNSサービスのエージェンシーで働いていたが、すぐにSNS自体の存在も人を騙しているかのように思うようになってしまった。SNSはもともと中毒になるように設計されており、人の人生の時間を無責任にも蝕む。あなたが日々インスタグラムやTikTokで費やす時間はあなたの人生を豊かにするうえでは将来的にほとんど役に立たない。そして、ビジネスはそこで搾取した時間分の広告を貼り付け、稼ぎに稼ぐ。より長時間利用させようと毎回仕込みを行う。これ自体がスピリチュアリティの基本を逸脱していると感じたのである。

つまり、人々は喜んで長時間利用するが本当は騙されているのである。この他者を騙すという行為は宇宙エネルギー的にはかなりネガティブなことである。

また、ビジネス的な視点でも組織内の「競争」に参加しなければならない。出社ありのベンチャーあるあるだがホワイトボード上に自分の名前が書かれ、その隣に営業成績が定量的な形で他の社員と比較される。表面上は仲良くしていても決してどこかでは手の内は見せない戦いである。このような競争原理もスピリチュアリティの原則には相反する地球独自のものだ。成績が悪く1 on 1 で厳しく指摘され具合を悪くして辞めてしまった同僚も目の当たりにした。

「働く」という行為の表と裏を知った瞬間であった(その意味でも、大学在学中に正社員と同じ土俵で働いたのは素晴らしい経験だったと思う。これは大学を卒業してふつうは新卒入社後に知ることであるから)。

一方でビジネスで成果を出すためには、たしかに「人を何らかの方法で騙さなければならない」側面がある。そして、時にはあらゆる方向へとアタックしないといけないという事実も次第にわかっていった。ただ、その感覚が自分の中の普通になろうとしているときに、自分がしていることは凄くカッコ悪いことだと思うようになった。多分、私の心がまだ綺麗だったからだろう。占い部門のマネジメント成績で日本市場1位を取っていた私だが道半ばクリーンなビジネスを求めて、そこでの仕事は半年未満で辞めてしまった。その仕事自体は別にいま考えると普通にそれでもクリーンな部類だったが、私のスピリチュアリティは当時抵抗を示した。

※ちなみにだが、スピリチュアリティの原則に沿ったビジネスも可能である。ただ、99%の場合において、その様なビジネスは大金にはならない。小金にはなるが大金にはならないのが現代の資本主義である。

※自動車メーカーの様に多くの人を便利にするビジネスモデルもある。一方で多角的に見た場合、裏では下請け虐めや肉体労働などネガティブエネルギーに溢れたパーツが必ず組織内には存在している(が、人はそこには気づかずに商品だけ利用する)。

教育系ベンチャーに飛び込む

その後、私は次の仕事として本格的に教育ベンチャーへと飛び込んだ。もともと人に何か教えるのは得意だったし、大学1年の頃は塾講師としてもバイトをしており我ながら大変人気な先生だった。だから、今度は教育系ベンチャーで自分のバリューを出そうと思ったのである。ちなみに、そこを選んだ理由は超難関大学専門の教育サービスを提供するベンチャーであり、ここであればよくある塾の事業構造(やる気のない出来ない生徒をテキトーに教えて、我が子を可愛いと思う親から金を搾取する)ではなく、本当に熱意のある生徒(つまり、本気で教えれば頂いている対価以上の価値を出せる層)が多くいると思ったからだ。ここなら、スピリチュアリティの基本をある程度は守れると思えた。

一人目を担当した際からすぐに実力を認められて、新規事業として新たなプロダクトの企画と設計・運営までのオペレーションを全て任された。生徒集客のためにローンチ前は一日に何人にも営業をした。そして、赤字が続いていた学習塾事業において、プロダクト単体で3か月で400万円以上の売上を上げ、とある大学専門の予備校業界で売上・集客数共に1位を取った。もちろん、ベンチャーは成果報酬が基本であるから大学生とは思えないほどの高額な報酬をいただいた(逆に成果が出ずに失敗したら時給1000円以下なども普通なのでそこが醍醐味でもある)。そして、私は10人以上の組織の中で代表の次に偉い事業部長へと昇進した。

その商品を購入していただいた顧客からは大変好評で感謝された。自分が見ても素晴らしいと思える位、価格以上の価値があるものだった。そして、それが嬉しかった。中には、実際に長文の感謝の連絡をしてくれる方もいた。

―ただ、何を感じたか。どこかで物足りなくなってきてしまった。

「教育ビジネスはレバレッジが効かない。小金は稼げるが億円超えの大金は稼げない。」

そうモード1の自分が怒鳴り声をあげる。もともとクリーンなビジネスを追っていた自分がいつかビジネスの色に染まり始めていることに気づかされた(昔、こういう連中が一番嫌いだった時期もある)。でもそれが資本主義経済の基本であることも身を持って知ったのである。エゴの中で生きるならば、この世には従わなければならない大きなシステムがあるのだ。それで、下記の結論に辿り着いた。

ビジネスとスピリチュアリティの相性はこの世にないほどに最悪である。ビジネスにはスピリチュアリティの欠片も転がっていないことが大半なのだ。

それでも、私は成功したい。

一方で、私はもっと幸せになりたい。大きな事業を始めるのには大金が必要だ。ここから必要であれば資本主義経済の弱肉強食の中で他者を蹴り落してでも勝ち上がる必要があるのだろう。正直に言ってまだ何者でもないのだが、絶対に自分の価値をこの物質的な世界で轟かせてやりたい、自分の実力の腕をふるってやりたいとまだ若い身体が訴えかける。だが、夢の中にいる自分はいつも、これで正しいのかと質問攻めに遭う。

かつて大手コンサルティング会社の船井総研の創業者である船井氏も富を築くまでは、自己中心的な部分主義者だったがそれを達成した後にスピリチュアルに目覚めたという。これは、かつてのブッタも同様である。

だから、若い時はエゴの中で学び、いつかエゴの中身のチョコレートを食べつくしたら、真理を生きるという生き方でも良いのではとエゴ塗れの自分が話しかける。

若気の至りというが、もしかするといまがエゴの中で最も多くを学び尽くす時間なのかもしれないと彼は語ってくる(もちろん、他者に優しくするなどの基本は当たり前であるが)。

と、思いつつも中途半端に若いときにスピリチュアリティを齧ってしまった自分は2つのモードを巡ってその中で葛藤を続けているのである。

To be continued…


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