#想像していなかった未来 これは計画性もなくのほほんと生きていた私が、どん底に転がり落ちて自分の生き方を模索する事になる、そんな話。
現在50代の私は、40歳まではずっと広島に住んでいた。
広島で生まれ育ち、学校に通い学び卒業し、地元で一般企業に就職したのちに、ずっとひとつの企業に就業し続ける事に将来的な不安を抱えてからは、平日はさまざまな企業で派遣社員として働きながら、週末は飲食店で働くという複業生活を送ったりしていた。
私の母は学生時代に亡くなったので広島市内の実家に父と2人で住んでいて、私が家事を担当していた。そんな家庭の事情と、何より広島が大好きだったのもあって、広島を離れるなんて私の生涯設計には欠片もなかった。
40歳の誕生日を広島の呉という街で迎えた私は、その夜、閑散とした商店街の隅にあるウイスキーバーのバーカウンターで1人で飲んでいたのだが、隣にいた中高年のグループの中の1人も明日に誕生日を迎えると知り、酒を飲むと陽気になる私は、「私っ、今日で40歳になりましたぁ〜っ!うぇ〜いっ!!」などと叫んで、はしゃいでいた。
その頃の私は、長く派遣として働いていた会社で社員となり、仕事もそこそこ充実していて収入もそこそこ良く、私生活では料理教室に通ったり料理好きな友人たちと持ち寄りパーティをしたり、週末は買い替えたばかりの愛車でドライブしたりバイクでツーリングしたり、なかなかにリア充な生活を送っていたと思う。
50代の今、振り返ってみると、その40歳の誕生日、田舎の片隅で陽気な気持ちでウイスキーを啜っていたあの夜は、本当に平和で静かで、暖かな火がポゥッと灯るような、穏やかな夜だった。
まさに「嵐の前の静けさ」を象徴するような、そんな夜だった。
まさかその後10数年に渡って怒涛の人生を歩む事になるなんて、その時の私は知る由もなかった。
40歳を、広島の呉という寂れつつも穏やかな港町で迎えた私は、友人がその街に所有している一軒家で一人暮らしをしていた。
冒頭にも書いたとおり、私の母は学生の時に亡くなり、1人いる姉も就職と同時に家を出たので、私は10代の頃から父と2人で暮らしていた。
私は料理が好きだったし、父は物を捨てるとか整理整頓とかいう事を知らない人だったので、自然に私が家事を担当していた。
私は、家政婦を仕事にしてもいいなと思っていたくらいだったので、家事を担当する事は全く苦ではなかったし、特に何の問題もなく居心地良く実家暮らしを満喫していた。
でも、小さな工場を友人と共に経営していた父が、体力の低下を理由に仕事を辞めて家にずっと居るようになってから、電動マッサージ椅子や私の美意識に反する雑多な小物などがリビングを占領し始め、隣接するキッチンもだんだんと雑然とし始めて、私の「モノ」や「整理整頓」の許容範囲を軽く超え始めた頃から、私は一人暮らしを真剣に考え始めるようになった。
そんな時、友人が、当時空き家にしていた彼女の家に住んでみないかと提案してくれて、私は人生初めての一人暮らしを始める事になった。
30代最後の歳の、初夏の出来事だった。
初めての一人暮らしだったが、友人宅であるその一軒家には家具も生活道具もひとしきり揃っていたので、私は身の回りのモノをざっと揃えて車のトランクに詰めて行くだけですみ、軽快なスタートだった。
家の中に他の人の気配がない事で寂しくならないかと心配していたのをよそに、初めての一人暮らしはとても快適だった。
父の食事を作るために帰宅時間を気にしたり献立を考えたりする必要もなく、部屋は常に清潔で綺麗な状態が保たれていてストレスもなく、トイレのドアを開けたまま用を足す父にイライラする事もなく、今までになく自由で穏やかな生活を送った。
ただ、やはり友人の家でそれなりに気を使うという事、友人からその家もいずれ賃貸にするつもりと聞いていたのこともあり、しばらく経ってから私は一人暮らしの物件を探し始めた。
それでも夏のうちは、何となく、その内に良い物件が見つかればば良いな、くらいの気軽な気持ちでのんびりと物件探しをしていたのだが、秋になり肌寒くなり始めた頃には、冬を一軒家で1人で暮らすのは寒く、当たり前に光熱費も嵩み非効率だという事に気づいてからは、積極的に物件を探すようになっていた。
望む条件は、「南向き・ベランダ有り・キッチンは出来ればフルキッチン・駐車場付き」。
当たり前に人気のある物件で予算も限られているだけになかなか思うような部屋も見つからないまま時は過ぎていき、寒さも本格的になってきた11月中旬、私はようやくこれぞという物件に出会ったのだ。
職場へはバス1本で20分ほど、実家も近く車で5分、東南角部屋、フルキッチン、ベランダ付き、日当たりも風通しも良く、見晴らしも素晴らしい、2LDKの駐車場付きで予算内。
少々築年数は経っているものの、まさに条件にピッタリの物件だった。
ただ1つだけ、個室の2部屋ともが和室なのがネックだったので1部屋を自費でフローリングとクローゼットに改装したいと交渉し、大家さんの承諾を得て、11月末にようやく私は念願の自分の部屋を借りる事になった。
そうして、リフォーム工事を終えて12月中旬、私は晴れて初めての自分の部屋に引っ越しをしたのだった。
これから始まる本格的な一人暮らしにワクワクしながら。
翌月に待ち構えている波乱の幕開けなんて知るはずもなく、ウキウキと友人たちとのホームウォーミングパーティーの計画を立てていた。
12月に、初めて自分で借りた部屋に引っ越しをし、年末には、40歳を記念に開催された大掛かりな同窓会に出席して、例年にないくらいのいっそう晴れやかな気持ちで新年を迎え、これから始まる一人暮らしに胸を躍らせていた私が上司に呼び出されたのは、年も明けて10日ほどたった頃だったろうか。
話があると言われて会議室に向かう時の上司の微妙な空気に、もしや「肩叩き」かと身構えた私だったが、上司の口から出たのは全く予想だにしていなかった言葉だった。
「来月から東京に転勤してほしい。」
まさに青天の霹靂、だった。
肩叩きではなかった事に一瞬ホッとしたものの、担当していたプロジェクトが緩やかに縮小していたのもあり、この話を断ればそのうち辞めざる終えない事態になるだろう事は薄々感じられたし、新転地でのトライにもわずかだが興味を惹かれた。
そうは言っても、引っ越しをしたばかりだ。しかも自費でリフォームまでして。
2LDKという広い部屋に合わせて、家具や照明、カーテン、暖房器具などを冬の休みの間に購入したばかりだった。
上司には、年末に引っ越しをしたばかりで、しかもリフォームまでしている事を話し、今の状態で転勤は難しい事を伝えて何とか逃げきれるかと思ったのも束の間、会社側で賃貸の違約金もリフォーム代も負担してくれる事になり、私はもう断る術もなく、結局その翌月の2月には東京に転勤することが決まってしまった。
それからの1ヶ月はもうバタバタだった。
ちょうど1月末に東京での研修の予定があったので、勤め先になるであろう職場に近い物件をいくつか見繕い、研修前後の日程で物件巡りををしたが、土地勘もないこともありかなり難航した。見る部屋、見る部屋がどうにも住みたいとは思えない物件ばかりなのである。しかし、日程の余裕もないのでとにかくどこか見つけねばならない。つい2-3ヶ月前まで広島で物件探しをしていたというのに、再度の物件探しにほとほと疲れ果てていた。
そして、全くこれといった物件も見つからないまま迎えた東京滞在の最後の日、検討をつけていた最後の物件を見た後、付近を自分で歩いてみようと思い立ち、不動産会社の担当者とはその場で別れてブラブラと歩いていたところ、地元の不動産会社らしい店舗の前に貼ってある物件のチラシが目に止まった。
2LDKでフルキッチン、東南角部屋で築年数も古くない。
さすがに東京の一人暮らしで2LDKなんて広い間取りもフルキッチンも望んでいなかったが、見てみるだけでも、と思い入店した。
部屋に興味がある事を話すと、幸いにも近くの物件だったこともありすぐに内見することができた。
日当たりも見晴らしも良く綺麗で申し分のない部屋だった。バス停が目の前にあり、職場までバス1本で20-30分ほど。12-13分ほど歩けば、地下鉄の駅もある。
さすがに家賃は希望を大きく上回っていたが、会社が負担してくれる金額を差し引けば、払えない金額ではなかった。
出来れば、家賃を自分で負担する事は避けたかったが、もう時間がない事、それまで見てきた物件が全くの的外れな物件ばかりだった事もあり、私はその物件に決めるしかなかった。
結局、その後の5年の間にあと2回の引っ越しをする事になるのだが、土地勘のある今なら、もっと安く良い物件をもっと要領よく見つける事ができただろう。
全く見ず知らずの土地で、頼れる友人もいず、時間も限られた中での止むに止まれぬ選択だった。
物件は決まったものの、仕事の引き継ぎや引っ越しの準備で慌ただしく1月は過ぎていった。
いくつか予定していたホームウォーミングパーティはフェアウェルパーティと化し、そんな中で友人たちに照明器具や暖房器具を譲ったり、車やバイクを売ったり、不要な家具などを実家に運んだり、あっという間に引っ越しの日がやってきた。
広島を離れる当日は、引っ越しに次ぐ引っ越しと、去年からのめまぐるしく過ぎた日々に精魂も尽き果てて、また、やっとの思いで見つけた物件や大好きな車やバイクを手放さなければならなかった悔しさや、住み慣れた広島を離れる寂しさなど、いろんな感情が入り混じり、もう魂が抜けたようにソファに横になって、引っ越しの手伝いに来てくれた姉が床を拭くのをただただ眺めているしかできなかった。
それからの2年間はもうよく覚えていない。
私という人間を説明すると、HSPの傾向があり、思ったり感じたりした事を隠すのが下手で顔や態度にすぐ出てしまう、よく言えば裏表のないタイプで、それ故に社交は得意ではなく、思想はどちらかというと個人主義でリベラル寄り、階層や階級を重んじる風潮を嫌いフラットな体系を好む、そういう人間だ。
だから、職を探す時はいつも小規模な組織の外資系企業を意識して選んでいた。
地方なので、おおよそ東京や大阪に日本の本社がある企業の支店、という会社がほとんどだった。
転勤が決まった時も、外資系企業の50人ほどの規模のプロジェクトで働いていた。
それが、東京で私が出向することになったのは、超大手日本企業の本社、しかも極めて全体主義の私が最も苦手とする組織だった。
地方で、全体が把握できる規模の、自由な雰囲気の組織で、自分が何をすべきでどう動けば良いのかを理解して働き、仕事の手応えや役に立っている事を確かに実感してきた私だが、巨大な体育会系的組織の中では、自分がどう動くべきなのかを明確に理解する事も、何の役に立っているかを実感することも出来ず、迷子のようにキョロキョロしながら彷徨うような日が続いた。
何とか道を開こうともがいても、暖簾に腕押しのように全く手応えを得ることができずに空回っていて、自分が異質で役立たずのポンコツのように感じられ、本当に辛い日々だった。
実際に、異質で役立たずのポンコツだったと思う。今思えば、よく2年も続いたものだ。
そんなポンコツ状態で2年ほど経った頃に、色々な出来事が重なり先行きに全く希望を持てなくなった私は、とうとう退職を決意した。
知り合いや友達もいず、まだまだ不慣れな土地で、まさに清水の舞台から飛び降りる心境だった。
心底怖かった。怖すぎて、これからの先を考える事を遮断してしまったくらいに怖かった。
そして舞台から飛び降りた後の2年に渡り、私はそのまま崖を転がり落ちるかの勢いでどん底まで落ちる事になる。
少し遡るが、東京に転勤してきた当初、私は急な環境の変化になかなか順応できず、また見ず知らずの土地での今までと全く世界の違う職場や仕事・人間関係で心身共に弱っていた私は、しばらくカウンセリングに通っていた事があった。
広島では、予定のない週末は車やバイクに乗って郊外に出掛けていたのだが、東京に来る時に車もバイクも手放したので週末の気晴らしに何をすれば良いか分からない、というような事を話した時だったか、カウンセラーに他に趣味はないのかと聞かれた私は、カフェ巡りや雑貨を見たりするのが好きだと話した。
東京にはカフェもお店もたくさんあるから、週末はショップ巡りでリフレッシュすると良いのでは、とカウンセラーに勧められ、私はそれから週末には出掛けて、デパートやショップやカフェ巡りをするようになった。
東京はカウンセラーの言う通り、確かにショップ巡りには事欠かない、というより、まさにショップ巡りを楽しむためのようなショッピング天国そのものの街である。
それでなくても、慣れない生活と仕事でストレスを抱えていた私は、それを発散するかの如く週末ごとに出掛けては買い物をしていた。
話はさらに遡るが、広島から転勤してくる直前、私は広島で契約していた広い新居に合わせて家具や照明器具、暖房機器などを一揃え購入したばかりだった。窓が多い部屋でその上ほとんどの窓が規格外だったため、カーテンやロールスクリーンなどはオーダーメイドする必要もあって、かなりの支出だった。さすがに会社にこれらの費用は請求できず、加えて、広島での引っ越し費用や礼金などの出費(流石に会社もこれは負担してくれなかった)もあり、私は貯金がほぼない状態で東京に転勤してきていた。
その後に、東京での買い物三昧の生活である。家賃負担も安くはなかったので、貯金はほとんどない状況だった。
悪い事は重なるもので、退職を決意をする数ヶ月ほど前に、会社が家賃を負担してくれる期間の終了が迫っていた私は、家賃の安い物件に引っ越しをしていたばかりで、なけなしの貯金も引っ越し費用や賃貸物件の敷金や礼金などで使い果たしてしまっていた。
そんな引っ越し貧乏の無一文状態で退職した私だったが、もう何をする気も失せてしまった状態で、有休消化期間の1ヶ月は鬱屈とした気分でずっと家に引きこもっていた。天気が悪かったり雨だったりすると気が滅入って泣きたくなり、せめて晴れて欲しいと切実に願った。
ただ、いつまでも家に篭っているわけにもいかない。来月からは収入がないのだ。
私は、しばらくして派遣会社に登録をし仕事を探し始めた。もう就職活動をする気力はなかった。
すぐに仕事は決まったが、派遣社員の仕事だけでは生計が成り立たないので、休日は家の近くのレストランで働く、という複業生活を始めた。
休みなく働いていても、前の年にそれなりの給料を稼いでいた私の税金はびっくりするほど高かったし、家賃と生活の必要経費を払えば残りはわずかで、生活はかなり苦しく、実際のところ家計はほぼ自転車操業状態だった。
2年の間そんな状態が続き、当たり前に生活は少しずつ貧窮を極めていった。
このままではマズイと、姉にお金を借りて、さらに賃料の安い物件に引っ越しをして、何とか生活を立ち直そうとしていた矢先のこと、税金の支払いがなかなか出来ずにいた私の元に給与差し押さえの連絡が入った。
一瞬頭が真っ白になったが、すぐに気を取り直し、動揺しながら役所に電話をした。担当者に事情を説明して猶予の交渉をしたが、もう決まった事だと全く取り付く島もない応対で、必死の訴えも虚しく、手取りの1/4が差し押さえられることになってしまった。
まさに万事休す。
カードローンの返済が全く出来なくなってしまって1-2ヶ月を過ぎた頃から、取り立ての訪問が始まった。2-3度、留守中の訪問があった後だったか、夜、会社から帰宅した直後に玄関のチャイムが鳴った。すぐに取り立ての訪問だと分かった。
チャイムの音を聞いて、私は灯りを付ける事もできず息を潜めて人の気配がなくなるのを待ちながら、これから一体どうなるのだろう、と考えた。
このまま逃げ出して路上生活をするかとか、私の代わりに父か姉が返金に苦労する事になるだろうとか、このまま払えない状態が続いたらどうなるのだろうか、などを取り留めなく思いを巡らせた。
話は少しそれるが、私は20代の始め頃に当時付き合っていた人の借金のために名義を貸してしまった事がある。その人は半額近くは返してくれたものの後の半分以上は私が返金する事になってしまい、私の人を見る目がなかっただけとはいえ、非常に苦々しい思いをしたのだった。
その経験があっただけに、いかに身内とはいえ同じ思いをさせるわけにはいかない、と、その時、玄関に人の気配がなくなるのを待ちながら暗がりの中で強く思ったのである。
そして次の瞬間、私は決意した。
この先を私自身の目で見て確かめてやる。
その気持ちを何と言えば良いのか。
開き直った、あるいは体裁の良い言い方をすれば、現実を受け止めて逃げずに立ち向かう覚悟を決めた、というのだろうか。
少女漫画の設定なら、ここでイケメンで金持ちのキラキラ王子の登場となる展開のはずだが、なぜか私のところには王子がやって来る気配は全くなかった。
ただ、その代わりに私は手元にいる質問に何でも答えてくれる先生の存在に気付いた。
悠長に王子の出現を待つ時間の余裕もなかった私は、すぐにウェブサイトで借金の返済について調べて、弁護士に相談する手立てを見つけ、ある弁護士事務所に見当をつけてすぐに連絡を取ってみた。
電話で状況を説明すると、電話の向こうの担当者はテキパキとこれからの手順を教えてくれた。
先も見えず誰にも相談できず、足がすくみそうな状況の中で、この時の担当者のしっかりした口調や分かりやすく的確な説明に、どれだけ救われたことか!
その見ず知らずの弁護士事務所をこのまま素直に信用して良いものかという一抹の不安はあったものの、藁にもすがる思いで、私は指示通りに契約書と必要な書類を用意して送った。
それからすぐに弁護士事務所から連絡があり、具体的な説明を受けた。
これからの一定期間、私は今後の返済予定金額と同等額を弁護士事務所に手数料として支払い、その間に弁護士とカード会社との交渉が行われて合意に至れば、その後からカード会社への返済が始まる、という内容だったと思う。
合意が取れなければどうなるんだろうか、とか、支払い続ける事が出来るだろうか、とか、不安は尽きなかったが、それ以降、取り立ての訪問がピタリと止まったのでそれだけでも心がずいぶん軽くなったのを覚えている。
それからしばらくして弁護士から連絡があり無事に交渉が成立してこれから返済が始まると教えてくれた。
弁護士事務所を通さずに自分で直接支払う事も出来たのだが、自分のお金の管理能力の無さを嫌というほど痛感した私は、弁護士事務所を介しての返済を希望した。
そして、あれから7年。
私はこの夏、無事完済を果たした。
この7年の間、私はあの買い物三昧の日々に手に入れたものたちを売り続けた。喪服やスーツケース、はたまた片っ方しかないパールのピアスなどまであらゆるものを売り尽くし、叔母から譲り受けた年代物の腕時計や母親の形見の結婚指輪さえも手放してしまった。
100円のおむすびすら買えずに情けない思いをしていた最中に胃潰瘍で入院する羽目になり6万円の手痛い出費を負うという泣き面にハチの状況になった事もあれば、突然のゲリラ豪雨にビニール傘を買う事も出来ず、全身ずぶ濡れで電車に乗ったりした事もあった。ある商店街を歩いていた時にどこからともなく現れたオレンジ色の袈裟の僧侶に本を手渡され、なけなしの全財産である500円をお布施した事もあった。(断れず泣く泣く、というより何となくコレはケチになったらダメなやつだ、と感じた。)
収入の少ない月には日雇いのアルバイトで食い繋ぎ、休みなく年末年始も働き、電車代がなくて1時間〜2時間歩くなんてざらだった。
なにをどう生きてきたのか、もうよく思い出せない。
もうただひたすらに、私には乗り越えられる、と根拠もなく自分を信じ続けていた。
よくまあ挫けずにここまで生きてこれたものだ。
自分を信じ続けた自分を褒めたい。
ただ、何もかも手放す事になった経験は、私がどういう人間かを非常に良く理解するキッカケになったので、今となっては本当に良い経験だったと思える。
10年ほど前だったか、ある男性が失恋をキッカケに持ち物の全てを貸し倉庫に預けて、1日に1つだけ倉庫から持ち出すというルールを決めて実行する、という自分の見直しを図るような映画があったが、あれと似ているかもしれない。
私は手放すしかない状況だったので、当時は本当に情けないやら悲しいやらの辛い思いをしたものだったけど、今、その中に再度取り戻したいものがあるか、といえば、強いて言えば喪服くらいだろうか。
ブランド品でそれなりの値段がしただけに、時代に左右されないシンプルシックなデザインで生地も良く、私の身体にもぴったりでとても気に入っていた、というのもあるが、何より私の年齢的にこれから使用頻度が上がるだろう事が予想されるので、というただそれだけの理由だ。
叔母から貰った腕時計や形見の指輪はいいんかいっ!?と突っ込まれそうだが、取り戻せたとしても墓場まで持っていけるわけでもないからな、と今は思うのだ。
物に対する執着がなくなったというよりは、この7年の間で、私の本当に欲しいと思う物が必要な数だけあれば良い、と思うようになったのだ。
お金の使い方も以前はあまり良く考えていなかったが、今は優先順位や多少の計画性をもって使うようになった。使える額が限られているので当然と言えば当然のことなのだが。
コロナ禍の在宅以降、朝・昼・夜の時間を複業の仕事に充てる事ができたので少し余裕ができたのだが、真っ先にした事といえば、個人事業の仕事に関わる資格の取得と広島への帰省だった。
追い詰められ、限られた中だったからこそ、私は自分自身を分析しながら自分がどういう生き方やどういった生活を望むのかを知り、これからの人生について真剣に考えることが出来るようになったのだと思う。
今、私は平日は派遣社員として事務の仕事をしながら、休みの日は個人事業主として仕事をする、複業生活を送っている。
給与も良くボーナスなどの待遇に恵まれている正社員を羨ましく思う事もないわけではないけれど、企業に就職して社員として働くのは、私には合っていないと、東京の生活で思い知ったからだ。
東京という新しい地で生活をし始めてから、生まれ育った広島での長年の生活ではそこまで気に留めていなかった、あるいは無意識のうちに回避できていたのだろう何かが、私の中で顕著に症状として現れるようになっていて、その事で私はとても苦しんでいたのだが、5-6年前だかにそれがHSPに当てはまるらしいという事に気付いた時は、それはもういろんな事がいっぺんにストンと腑に落ちたものだった。
そして、どうやらHSPらしい私が働きやすいと感じる職場や出来る仕事は限られているのだが、企業に正社員として入社してしまえば、担当替えがあったり役割が変わってしまったり部署や仕事内容ががらりと変わってしまう事だってある。ある程度仕事や人間関係が固定されていて、職場も選べる派遣社員として働く方が私には合っていた。残業や休日出勤もなく複業がしやすい、というのもある。
お金の管理が下手で借金をしたり、企業での就業を苦手としたりする事で、いまだに自分を欠陥品のように感じて不要に落ち込む事も多々あるのだが、どうやらHSPが関係しているらしいという事が分かってからは、開き直るのも早くなった。
他の人と同じようなごく一般的とされる生き方ができなかったとしても、私の持ち味を活かした何か別の生き方があるはずなのだ。
そして今、この10数年の経験で自分という人間をようやく理解した私は、これからの新たな人生をどう生きていくかを模索している。
10数年前には想像もできなかった未来に立って、予測不可能な未来を見据えながら。
これからも自分を信じて、生きていく。
これは余談になるが、私の人生を振り返るに、おおよそ10年に1度の割合でショッキングな出来事に遭遇する事になっているようだ。
10数年前の望んでいない転勤もその内の一つだった。
そしてその周期でいくと今年あたりにまた何か起こるかもしれないと、今年の年明けに自分のフェイスブックでつぶやいていたのだが、転勤後の人生がジェットコースター並みの余波だっただけに、これ以上何も起こらないだろうとぼんやり思っていた。
それが、今年の夏に私は非常にショッキングな出来事を経験する事になったのだった。
ただ、それはまた別な話なのでまた別な機会に。
長く稚拙な文章に最後までお付き合いいただき、感謝を申し上げます。
この投稿はマイナビ×noteで開催されている投稿コンテスト「#想像していなかった未来」向けに書かせていただきました。
私自身としては、恐らく30代辺りが最終的なターゲットとして設定されているだろう募集にこの内容で応募して良いものなのか、また、この話に興味を持ってくれる人が果たしているのだろうかもよく分からないまま、ただ、今回あまりにドンピシャリなテーマをいただいたのであまり深く考えず思うがままに書いてみましたが、もしこの話が少しでも、生き辛さを感じている誰かの生きる力の支えになれば、それこそ私の望みであり、願いです。
こんな私に寄り添い、支え続けてくれている全ての人に感謝を込めて。
ありがとうございました。