【好きなこと=嫌いなこと】 #06 旅という名の差別 〜映画「グリーンブック」を観て
「グリーンブック」という映画を台北からの帰りの機内で観た。本作は、1960年代のアメリカにおける人種差別を描いた作品である。主人公の1人、ドクターは黒人で、クラシックピアノ奏者である。クラシックに黒人、1960年のアメリカで"普通"に考えれば、とても珍しいことだ。だから彼はこのようなことを言う。
「俺は黒人文化とは違う文化で生きてるから黒人にも黒人としてみられない。そして白人文化にいっても白人とはみられない。では俺は何なんだ?」
台北滞在中、旅について考えていた。
旅とは何だろう?
旅をする、といったとき、気づかぬうちにぼくたちはぼくたち自身を定義している。ぼくは日本人だ、日本に住んでいる人だ。台湾に行こう。台湾は日本とは違う場所だ。違う場所にいくことは旅である。自分のテリトリーから出ること、それが旅である。とすれば、自分や自分のテリトリーを規定しなければ、旅とはいえないのである。
主人公たちは、テリトリーを行き来する。それは町であったり、道であったり、建物であったり、文化や人種であったり。世界という大げさな広さでなくても、隣町には隣町の、いや、店には店ごとの、人には人ごとの文化があり価値観がある。それぞれのあらゆるテリトリーをぼくらは知らず知らずのうちにつくり、踏み越えていく。境界をまたいでいく。そして、人のテリトリーを傷つけていく。どちらが傷つけ、どちらが傷ついているのだろう。
ぼくたちは、旅人だ。
人生は旅にたとえられる。ともすれば、人生とはテリトリーを越えていくこと。そして、越えながら自分や他者の領域を傷つけているのである。そう、ぼくたちは旅という名の差別をしているのだ。
ラストシーンで主人公たちはNYに帰る。旅の終わりと始まり。そこは自分のテリトリーだろうか。それとも。
そして、映画の終幕と同時に、ぼくの乗った飛行機は羽田空港に着陸した。
差別表現について賛否両論のあるこの映画。旅の最中にロードムービーをみて、ああ旅って本当に好きだなぁと思うのである。つまりそれは、「旅という名の差別」が好きだということなのかもしれない。もちろん、ここでいう「差別」とはとても広い意味だ。差別はどこにでもある。だが、それによって人を苦しめるのかどうかはまた別の問題だろうと思うし、その苦しみのレベルは自分が旅をして価値観が変わるとかそういうレベルから、人種の話や性別の話から"蔑視" "虐待"まで様々であろうと思う。だから、このことを改めて認識することが大切なことのように思うのだ。
そう、私は「旅という名の差別」がとても嫌いで、とても好きなようである。
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all photo by tomohiro sato