【好きなこと=嫌いなこと】 #02 一枚の落ち葉
落葉の季節である。
東京都心部は銀杏並木が多く、この季節になるとその黄色がとても鮮やかでまぶしい。でもどちらかというと、私は「一枚の落ち葉」のほうが好きだ。
なぜだろう?
昔から大きかったり、大量だったりするものにはあまりひかれない。小さくてかわいいもの、コンパクトだけど機能が充実しているものに心ひかれる。一枚の落ち葉は、ちいさくてうすっぺらい。だから、ひかれるのだろうか。
では、なぜ、ちいさいもの、きゃしゃなものがすきなのだろうか?
小さいほうが手に取りやすい。身近に感じやすい。
写真を撮るときの話をすれば、小さい方が構図のバランスをとりやすい。逆にいえば、大きいと存在感が強くなり、周囲のものとのバランス、構図が難しくなるからといえるのだろうか。逆に大きすぎるものは絵になるし、そのパワーは計り知れず、そのまま圧倒される。大きいものが嫌い、小さいものが好き。というより中途半端なものが嫌い、なのだろう。
でも、小さいものと一枚の落ち葉そのものにはまたちがう魅力があるような気がする。
一枚の落ち葉が好きというのは、群衆の中から飛び出したい、ひとりになりたいことのあらわれかもしれない。千葉雅也氏がいうような「接続過剰における切断」を、私は求めているのかもしれない。つながりの可視化による関係性の洪水。可視化されることによる可視化されていないものへの鈍感さ。ただ"ある"ことへの批判的な眼差し。とても嫌な気分になる。
この世界はどこまでいっても、わたしたちが知ることのできないものがある。すべてを知ることはできない。広大な宇宙。僕らが知ることができるのはせいぜい、宇宙に浮かぶ星々の一部でしかない。宇宙はさらに膨張を続け、ぼくたちは広大なスペースに放り出されている。でもそこには確実に引力やなんらかの力がはたらいている。星々が恒星系をつくり、銀河系が渦巻くように。
こう考えると、ぼくたちの日常もまた宇宙のフラクタル(相似形)でしかないのかもしれない。わたしのまわりに、ひとはいる、ものはある、そして、うごく。その間には何があるだろうか。わたしにはみえない。ただ、感じることはできる。"何らかの"動きと、渦巻きを。
どの木から落ちたのだろう?落ちたこれからどこへ行くのだろう?彼・彼女は孤独だろうか?などと。それが、宇宙にいるわたしたちの孤独さと儚い強さを伝えてくれるような気がする。
だいぶ話が抽象的で、かつ、詩的になってしまった。一枚の落ち葉を眺めていると、構図のインスピレーションを与えてくれる。そして、勇気と想像力を与えてくれる。
だから、わたしは「一枚の落ち葉」がとても好きなようだ。
photo : ©tomohiro sato, nobody / dressing