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【価値観の原点】幼少期の原体験を言語化してみた

28歳になり、友達の結婚式に参加したり、身近な友達で家族を持つひとが増えてきたり、自分の家族についても考える機会が増えた気がする。
ということで思い立って、今の価値観にも影響があったなと思う自分の幼少期の原体験を言語化してみる。


◆”大きいばあちゃん”との思い出

思い返すと、幼稚園に入る前は家族経営している会社の事務所が保育所のような感じで、絵本を読んでもらったり机の下を這いながら落ちているクリップを拾い集めるゲームをしたりしながら、会社の中で面倒を見てもらって育った。
今だと子供の預け先がなかったり保育園に入れないなどの課題がある中で、当時からありがたい環境で育ててもらっていたと思う。

会社に行かない時は、”大きいばあちゃん”(曾祖母のことをなぜかそう呼んでいた)と一緒におばあちゃんの家でお留守番していた記憶もうっすら残っている。
元々小学校の先生だった”大きいばあちゃん”はピアノを弾いてくれて、「も〜もたろさんも〜もた〜ろさ〜ん🎵」って歌を一緒に歌ってくれたり、いなばの白うさぎなどの昔話を話してくれたり、野良猫に残飯の餌をあげたり、3匹のマルチーズのお世話をしたり、飽きることなく遊んでくれていたと思う。(急に白目になって入れ歯を吐き出して変顔するようなお茶目でユニークなおばあちゃんだった笑)
小さい時から音楽とか絵本とか動物に触れることが身近だったのは、”大きいばあちゃん”の影響が大きかったと思う。この期間に自分の感性とかいろんな感覚を育ててもらった気がする。

◆脚​​のあざ

私には生まれつき右脚全体に赤いあざがあったので、3~5歳までの間に5回あざを薄くするレーザーの手術をした。
思い出せる中でおそらく一番古い記憶は、初めての手術の前の採血が出来なさすぎて、首から採血されてちっさいベットの上で目覚めたこと。

レーザーの手術後は火傷したみたいな状態になるから、包帯を剥がしてお風呂に入るのも痛くて、皮が剥がれちゃったところにクリームを塗ってもらったりしていた。
自分ではあまり覚えていないところもあるけど、泣きじゃくる私の包帯の巻き替えをやってくれていたお母さんには、耐えてお世話してくれたことに本当に感謝だし、当時の親の気持ちを想像すると心が痛い。

ちなみに、幼かったからか手術の日は大体事前に言われず突然やってくるので、急に今日は朝ごはんが食べれないから、って病院に連れて行かれていた。多分パニックで訳もわからず車に乗っていたと思う。しかも、手術の日に限って、幼稚園の遠足とかドッジボール大会とか、楽しみにしていた行事とかぶって参加ができなかったのが悲しかった記憶がある。

そんな中でも、よくおじいちゃんが「そのあざは神様が与えてくれたものだよ、小さい時にそういう苦労をした人は特別な存在だからね」って言っていたのを覚えていて、その言葉を私も真に受けていたと思う。
おじいちゃんも5歳の時に交通事故に遭って生死を彷徨った経験があって、頭にもずっと傷跡が残っているけど、最終的に経営者として会社を作り上げたし、今の私の人生の目標といえる存在でもある。
だから、これは自分にとって必然なんだなって思っていたし、むしろ「私は特別な存在なんだ」って刷り込まれていたんじゃないかと思う笑

◆​小学校受験の失敗

ありがたいことに教育にめちゃくちゃ力を注いでもらっていて、私も小学校受験を経験した。お受験の塾ではそれなりに上位の方にいたみたいだし、運動神経も良い方だったし、どこかしらの学校には受かるんだろうと思っていた。
でも、蓋を開けてみたら受けた小学校全部ダメで(難関しか受けてないのもあるが)、5歳なりに挫折を感じていたと思う。
どんな学校かなんて当時はもちろん知らなかったけど、絶対に中学受験でリベンジするって気持ちが芽生えるきっかけになった。

◆​小学生時代

小学校1年生の時は脚のレーザー手術をしたこともあって日焼けしちゃいけないから体育でも一人だけ長ズボンを履いていた。その事情を知らない先生に「なんでこのズボン履いてるの!」ってつままれたことがあって、自分で説明できなくて泣いた記憶がある。
それをお母さんが連絡帳に書いてくれて、当時おばあちゃんみたいで優しかった担任の先生と二人でお話ししたことを覚えている。

そんなこともあったりして入学してすぐはちょっと人と違うのかもって思っていたけど、なんだかんだ体を動かすのは好きで、一人だけ男子にまざって走り回って遊んでいるような子だった。
家族の中で鍛えられていたからか、低学年くらいまでは腕相撲も負けたことがなかったし、小学校4年の時には区のわんぱく相撲女子の部で優勝した経験もある笑

そして、小学校1年生の2月頃から中学受験のサピックスという塾に通い始めて(週1回とかから)、受験競争の世界に入っていくことになった。

そんな塾通い生活が始まってすぐの小学校2年生の時、組み分けテストの日に”大きいばあちゃん”が94歳で亡くなった。
その時初めて身近な人が亡くなるという経験をして、おばあちゃんのお骨をお箸で骨壷に入れて、「人って死んじゃうと骨と灰になっちゃうんだ」ってことを知った。

高学年になると段々勉強もガチになってきて、小学校の友達と遊ぶ時間は減っていった。
地元の小学校で中学受験をする子は数人しかいなくて珍しかったからちょっと浮いていた気もするけど、子供ながらに「私はこの子達とは同じ道には行かない!」って心に決めていたから、小学校の勉強は茶番だ!って思いながら塾に通っていた。(おませな子)

塾のクラスは全部で24クラスあって、実力順にクラス分けされて毎週入れ替えがある超競争社会だったけど、むしろ塾ではおませな女の子も多くて話が楽しくて、特に5,6年生で志望校別のクラスになった時には塾に行くのがが楽しかった記憶がある。

小学校4年くらいから何校か文化祭にも足を運んで志望校を考え始めた。
その時からSFCの文化祭は校舎も綺麗だし、帰国子女が多くて先輩もキラキラして見えて楽しそうだな〜と思っていた。

御三家の女子校にも連れて行ってもらったけど、「みんな頭よさそ〜」という感じで自分がなじめるイメージは正直湧いていなかった笑

最終的に、家から近い慶應中等部に行きたいって子が周りにも多かったし、私も受かっていたらそっちに行っていたかもしれないが、SFCの方にご縁があって合格することができた。
塾で仲の良かった友達はほとんど慶應中等部か女子学院に進学したけど、私は片道1時間半かかる湘南藤沢の中高に通うことになった。

オールバックのポニーテールで、色白でメガネでガリ勉だった私は、小学校受験で全落ちしてからほぼ6年越しで憧れの学校に合格することができた。

私の姉弟も含めて10年以上、中学受験を乗り越えるためにあらゆるサポートをしてくれた親には頭が上がらないし、私の人生を広げる選択肢を作ってくれたことを心から感謝したいと思う。

◆お父さんとの別居

小学生5年生の時、家族の中で大きな出来事があった。
お父さんに何も言わず、お母さんと姉と弟と犬、4人と1匹で家をでていった。
話し合いで離婚ができるような状態ではなかったみたいで、とりあえず家をでて弁護士を介して離婚の調停をしていたそう。
(最終的に私が中学2年生の頃に離婚が成立した)

私自身はありがたいことに、おじいちゃんとおばあちゃんや家族に支えられて、生きていくのに不便を感じるようなことは一度もなく愛情たっぷり育ててもらったけど、その時家を出てから自分の中でのお父さんの記憶は止まっている。

正直、小学生ながらお父さんのことは好きではなかったけど、お父さんとお母さんがいなかったら自分は生まれていないし、大好きな家族に育ててもらうこともなかったから感謝したいと思う。
2人が結婚したのは正直奇跡で、危うく自分がこの世に存在していなかったと思うと、生まれてこれただけでもラッキーだったなと思っている。
だから人生はボーナスタイムみたいなもので、生きてるだけで儲けもん!(byおじいちゃん)って気持ちが根底にあると思う。本当に。
今もいつ死んでも後悔はないくらい、自分は幸せ者だな〜って思ってる。

と、まあまあ濃い経験をした幼少期だったと思うけど、とにかく自分の家族にはこの世に産んでくれて、そして不自由なく温かく私をここまで育ててくれてありがとうと伝えたい。

ここまで28年の私の人生は、家族に生かしてもらって、笑顔と愛に包まれた環境を与えてもらえたから歩いてこれたんだとつくづく思う。

私は自分のルーツを誇りに思いたいし、これから大変なこととか悲しいことがあったとしても、家族に育ててもらった感謝を胸に、今度は自分が愛情を与える側になって生きていけたらと思う。

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