なんでなんで小僧に気づかされた大切なこと
もうすぐ4歳の息子は、絶賛「なんでなんで」ブームである。
ちょうど自粛期間がはじまって、幼稚園入園が延期になった頃、どこからともなくやってきたブームに、私はたじたじだ。
たとえば昨日のこと。
室内の楽しい遊び場に2人で行った。息子は帰りたくない。
「帰ろうか」
「なんで?」
「父ちゃん、お腹空いてると思うよ」
「なんで?」
「もう1時だからさ」
「なんで?」
「朝ごはん食べてからだいぶ時間がたってるからねぇ」
「なんで?」
「・・・お腹空いてない?」
「すいた!」
「じゃあ帰ってごはん食べようよ」
「そだね」
「帰ろうか」から「そだね」に至るまで、なんと遠回りするのだろう。幼稚園から帰ってからの数時間ならなんとか丁寧にやりとりできるものの、1日中いっしょに過ごす休日は、想像以上に苦しい。
気持ちに余裕のあるときは、そのなんでなんでを面白がれたりもする。なんでなんでと突き詰めて会話をすると、大人になった私でも「よく考えたらなんでだろう?」と感じることがたくさんある。子供の突拍子のない言葉やかわいい疑問は、私の心をキュンッとさせてくれたり、刺激してくれたりする。
ただ気持ちに余裕のないときは、なかなかつらい。1人でボーっとしたいときや、できるだけ誰とも話したくない日は、お母さんにだってあるのだ。
先日とてもイライラする日があった。容赦なく飛んでくるなんでなんでに、なんとか対応していたけれど、1つ終わったらまた次の1つがはじまる果てしない「なんで」たちに、ついにプチッときてしまった。
「なんで?」と聞く息子に、
「理由なんてない!」
とキツイ口調で言ってしまったのだ。一瞬だまってしまった息子をみて、一瞬「しまった!」と思ったけれど、次の瞬間に息子が発した言葉に唖然とした。
「なんで?」
その言葉を聞いた瞬間、全身の力がぬけて、その場に座りこんでしまいそうになった。
地球にきて、まだ4年もたっていない息子にとって、地球は不思議だらけだ。おもしろいものだらけなんだろう。興味だけで視線を動かす息子の潤んだ瞳を、何度もきれいだなと思った。その瞳に嫉妬さえしそうになる。
その瞳に気づかされることがたくさんある。その瞳は、母である私がまちがった方向にいかないように正してくれるような、まちがいのない瞳である。
最近は「叱る」ということについて考えさせられた。
子供のしつけをするのは親の役目だと誰もが思っていて、私ももちろん「親らしくしなくては」という想いがどこかにあって、親らしい振る舞いを演じているような感覚になることがあった。
「ごはんであそんじゃダメでしょ?」
「大きな声を出しちゃダメでしょ?」
「叩いたらダメでしょ?」
「走っちゃダメでしょ?」
「早くして!」
「お水を出しっぱなしにしないで!」
「そんな言葉使わないで!」
「危ないからやめて!」
などなど、親として最もらしいことを言っているつもりだった。でも、このような言葉に対しても、息子のなんでなんでは発動する。
そして、なんで?と聞かれたときに、私もなんでだろう?と思ってしまったのだ。
どうしてごはんで遊んじゃだめなんだろう。どうして大きな声を出しちゃダメなんだろう。どうして叩いたらダメなんだろう。どうして走っちゃダメなんだろう。どうして早くしなきゃダメなんだろう。どうしてお水を出しっぱなしにしちゃダメなんだろう。どうしてその言葉を使っちゃいけないんだろう。どうして危ないとやめなくちゃいけないんだろう。
その一つ一つに、自分の気持ちに正直に答えていくと、見えてくるものがあった。
せっかく作ったごはんがぐちゃぐちゃになったら、母ちゃん悲しいよ。
そんな大きな声を出したら、母ちゃん耳がキーンとして痛いよ。
叩かれたら、母ちゃん痛くて嫌だよ。
走ると、誰かとぶつかったりコケて怪我をしやすくなる。痛い思いをしてほしくないんだよ。
友達と待ち合わせをしているから、約束した時間にちゃんと着きたいんだ。
無駄なお水にたくさんのお金を払うんだったら、そのお金でみんなでおいしいもの食べたいな。
そんなこと言われたら、母ちゃん悲しいよ。
あなたが死んじゃったら、母ちゃん悲しすぎるよ。
全部全部、「親として」叱っていたのではなく、私が嫌なことだったんだなって気づいたのだ。ただただ自分が嫌なことを、いかにも正しく叱っているかのように、まるで命令するような言葉で、息子に伝えてしまっていたことが、違和感の原因だったんだと思う。
母ちゃんが嫌だからやめて、と伝えるようにすると、息子のなんでなんでが止まり、「そうなのー?」と納得してくれることが増えたような気がした。そして、私自身もこの伝え方の方がなんだかしっくりくる。
叱らなくてもいいんじゃないかと思った。
全部「私が嫌だと思うからやめて」を基準にすると、すごくシンプルになる。
息子にとって、私が人間関係の第一号だ。第一号は責任重大だ。息子がこれからたくさん築いていく人間関係の基礎になる。
だから、その人間関係が一方的であれば悲しいなと思う。私に伝えられることは「人によって嫌だと思うことはそれぞれだけれど、相手が嫌だと思うことはしないでね」ということだけな気がした。
今回も、息子の瞳に気づかされた。
やるじゃないか、小僧。
にごりのない息子の瞳は、私を成長させてくれる。
なんでなんでと言わないでと思ってしまう日もある。同時に、なんでだろうと思う気持ちをなくさないでほしいとも思う。
「なんでだろう」という気持ちは、自分にとって正しい方向に導いてくれる大切なサインだと思ったからだ。
息子よ、どうかこれからもなんでなんで小僧であれ。しんどくて付き合えない日もあるけれど、そんな日は大目に見てね。