家なしでも生きていけるけど、家は欲しい。
昨晩、こんなことを思った。
「家がなくても、人は生きていける。」
「けれど、家はあってほしい。」
昨晩、夜空の下で一緒に東南アジアを旅したRomと電話した。
私は山梨、彼は北海道にいる。電話越しに雨の音を聞きながら、彼とこんな言葉を交えた。
「家もういらないよな」
「いや、家いるだろ。家があるから安心できるじゃん」
「あ、そうか。」
家がいらないなんて言った自分は傲慢だったと、即効で恥じた。
私はいまテントで生活しているけれど、それは実家に帰ることのできる事実に支えられているに過ぎない。
どこか帰る場所があることが、心の拠り所になっているのだ。
もし、帰る場所がないのなら、私は今の精神状態を保っていられるか自信がない。その事実を受け入れ、家なしで暮らしていくのか、どこかに賃貸を借りるのか。
いずれにしても、私は家がなくとも、心の中には家を持っているのだ。
私はまだまだ甘ちゃんだった。
甘ちゃんといえば、昨日見た映画からも感じたことがある。
アマゾンプライムで「生きてこそ」という映画を見た。
1972年に起きた、アンデス山脈での飛行機事故がもとになった、ノンフィクション映画だ。
生き残った16人は、極寒の地の中、飛行機の残骸、座椅子のカバーを毛布代わりにして、身を守った。そして生きていくために、この世を去った仲間の死肉を食べたのだった。
彼らは生きるか、死ぬか、の中で生きていた。
今の私はどうだろう。コンビニに行けば、食べ物は手に入る。甘いものが食べたければ、スイーツだってなんだって買える。午後にホットコーヒーだって飲むことができる。
なんだか今の自分の生活を「サバイバル」なんていうことが、恥ずかしくなる。
私はまだまだ甘ちゃんだった。
自分から死に瀕する状況をのぞもうとは思わないけれど、自分の限界を知ってみたいと思う。生きるか死ぬか、そんな状況に陥った極致の自分を見てみたい。
なんて言うのも、また傲慢なのかもしれないが。。。
私が旅をしつづけるのは、そんな好奇心が根底にあるかもしれない。