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3/19土:人間性の獲得には博士課程進学を。

飲み会の席で今後どういう道に進むのかと問われたとき、不意に口をついて出てきた言葉は、「自分の人生に興味が無くなってきたから、あまりよくわからない」というものだった。

より正確に言えば、元々私は自分の人生そのものにはそんなに興味が無かった。私が博士課程に進学した理由もある意味ではそれに関連する。

確かに、自分が専門とする学問分野がどのように生まれたのかという歴史や、その学問的思想には大いに共感しているし(教えて下さった准教授には頭が下がる)、自分自身の研究テーマへの一定の興味もあったから、もうしばらくこの環境で研究を続けてみたいと思い、進学する道を選んだところもある。

しかしそれだけではなく、仮説と検証に基づく自然科学の手法が人間の成長を創り出すことを理解してから、もう少し研究というものに取り組んで、研究とは一体どういうものなのかをわかって、自分自身を実験台にして自らの手で自分を成長させられるような人間になってから社会に出たかった、という側面もある。

もしこのまま私が社会人になってしまったら、私は獲得すべき人間性を獲得しないままに生きていくことになるのではないか、という少しの恐怖感すら感じたのである。

つまり私は、研究そのものに取り組みたい気持ちと同時に、自分自身の人間的成長のため、人間性を耕すために博士課程に進学したのだ。そのときには、それ以降の人生のことなど全く考えていなかった。

2年間を終えてみて、それぞれの1年間で大きな収穫は確かにあった。

博士課程の1年目では、コロナ禍で研究室活動が停止した期間もあったが、日本学術振興会特別研究員の申請書の執筆や研究中間発表などで自身の研究ストーリーを構築し直すことを通して、研究を「プロモーションする感覚」を学んだ。これは研究成果だけでなく、すでに自分自身が持っている能力や性質、人間性を他者に伝えるときにも使える力である。まだ使いこなしきれてはいないが、この感覚を掴めたことは私にとって大きな前進であった。

博士課程の2年目では、後輩の研究にコミットすること、周りの人々との間に一定の人間関係を積極的に築くこと、相手の行っている作業や相手の存在そのものに対して積極的に意味を与えること、これらは全て同義であり、「愛」という統一的な概念で説明がつくということを学んだ。私がこれまで愛というものがよくわからなかったのは、やはりその概念が抽象的過ぎたことと、具体的な経験が圧倒的に不足していたからだ。26年間生きてきてやっと積み重なってきた様々な経験から帰納法的に自ら導き出したこの「愛」の法則は、自分自身にとっても今後の生きる拠り所になるだろう。

こうして、これまでの2年間でも少しずつ人間性を耕してこれたわけであるが、一方でこのとき、人間性を耕した結果、自分が人生の中で具体的に何をして過ごしていたいのか、どういうことができる人間になりたいか、という自分の具体的なビジョンはほとんど無かった。おそらくこれは、死ぬまで終わらない人間性の獲得を無意識的に追及してしまっている結果なのだろう。

正直に言えば、今の専門分野について一生研究して過ごすイメージは全く沸かない。この研究室集団や研究者集団は、確かに素晴らしい人々が集まって素晴らしい環境を作り、素晴らしい研究成果と教育成果を挙げているということに間違いはないが、果たしてそこが自分の本当の居場所なのか、と考えると、しっくりくる感覚もあまりないのだ。

そういう人間はさっさと社会に出るべきなのだ。
もういつまでものんびりと人間性を耕している場合ではない。
大人になるとはこういうことでもあるのだろう。

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ともやの思考整理note
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