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「バランスを重視する」という価値観自体がバランスを阻害しているのです。

私の「価値観」とは一体どこにあるのだろうか。

というのも、「自分の価値観」に基づいて何かを判断したり、他者のことを評価したりすることについて、どこか心的ブレーキを感じるときがあるのである。

また、「自分の感性」に基づいて何かを感じたりすることがあまりできない人間なのかもしれない、と思うこともある。

その不安というか、自身の無さの正体がよくわからない。どうも自分の価値観や感性といったものに自信が持てないのである。

自分以外の人がある価値観に基づいて何かを表現したり意見を表明したりすることに対しては、何の違和感もなく受け入れる気持ちでいることができるのに、こと自分のこととなると、それが受け入れられないのではないか、という漠然とした不安がある。

この自信の無さを克服するために、と思って、色々なことを勉強したりした。

だから、これまでの自分の発言や文章や行動指針は、おそらくそのほとんどが、外部からインストールされたものだ。

また、私が育った子育て団体では、確かに「価値観を形成する」教育を受けてきたという実感がある。そして、それを如実に受け止めた人間の代表であるのがこの私だとも思う。

しかし、そうやって外部から与えられた価値観は、本当にその本人の価値観と言えるのだろうか?価値観というものは、外部環境やインプットされる情報によって後天的に変わるものなのだろうか?

ある書籍によれば、その人間の性質そのものは6歳頃までに決まってしまう、という言説もあるらしい。

ここで言われている「性質」と「価値観」とは、何がどう違うのだろうか?

この辺りの概念を私なりに少し丁寧に分類してみると、ここには「元々その人間が持っている遺伝的に決まる性質」と、「親の教育の偏りやバイアスによって外的に与えられた信念」と、「家庭以外の生育環境において後天的に付与される価値観」の3種類があって、これらが組み合わさることで、その人間の生き方や選択・行動が決められているのではないか、と思う。

こうした自分の中に存在する性質や価値観を、自分が受け入れられていないのではないだろうか。

ある意味でそれは、自分自身の価値観を無条件に肯定する「自己肯定感」と言うこともできるかもしれない。

自分の根元には、「調和を重んじる」、「バランスを重視する」といった価値観がありそうであることは既にわかっている。

もしかしたら、そうであるがゆえに、自分の価値観をしっかりとアンカーすることができていないのではないだろうか。

つまり、「ある価値観に軸足を置く」ということそのものが、「(他の価値観との)バランスを重視する」という感覚と矛盾し、バランスを阻害しているからである。

これ以上やると哲学的な話になりすぎてしまいそうだから、もうやめておこう。

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ともやの思考整理note
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