ヴェンダースの『PERFECT DAYS』とジャームッシュの『PATERSON』、二つの幸福論。
出来るだけ余計な予備知識や事前情報を入れずに観たかったので、『PERFECT DAYS』を公開日の翌日(12/23)に観てきた。
ヴェンダースのフィルム、そこに流れる歌がルー・リードとくれば、否が応でも期待は高まるわけだが、期待にたがわず、端的に言って、僕の好きなタイプの素晴らしい映画だった。
ひとまず、自分の備忘録もかねて、感じたことをつらつらと書いていく。
(ここからは、いわゆるネタバレを少し含むので、未見の方はご注意ください)
この映画はかちっとした起承転結的なストーリーらしきものは持っておらず、セリフは極度に少なく、徹底して説明は省かれていて、繰り返される日常の中での感情の揺らめきがクロースアップを中心にした画で丁寧に画面に映されている。スタンダードサイズの画面、色調、環境音や音楽の使い方も巧みで(もちろん選曲も)、作品世界をよく表していたように思う。
そして僕は、ジム・ジャームッシュの『パターソン』にとてもよく似た映画だという印象を持った。似ている(あるいはシンクロしている)なあと感じた点は多い。(ただしこの感じ方には、僕が『パターソン』を偏愛しているゆえのバイアスもあるとは思う)
まず、そう感じた最も大きな要因は、どちらも、一人の人物の繰り返される日常を、心地よいリズムで淡々と描いていること、そこに表出する少しずつの日々の違いを、瑞々しく映し出していること。この辺りは、(たぶん)多くの人が、すでに言っていることでもあると思う。
それに加えて、より具体的なところで、似ていたと感じさせる点は多かった。
まず、『パターソン』は、「バス運転手にして、詩人」が主人公であったが、『PERFECT DAYS』は、「トイレ清掃人にして、文学と音楽好きの“インテリ”」が主人公であるという相似形。(ちなみに“インテリ”という形容はある登場人物によって作中で発せらている。)
アダム・ドライバーが演じるパターソン(役名)は乗り合いバスのハンドルを握っていて、役所広司が演じる平山(役名)はトイレ清掃用の軽バンのハンドルを握っていた。どちらの作品のキャメラも、二人の卓越した俳優による、ハンドルを握りながらの微細な表情(表象)を見事にとらえていた。
両者の違いは、パターソンには愛らしいパートナー(配偶者)と愛犬がいたが、平山は一人暮らしであったという点。ただし平山には、愛犬の代わりに「鉢植え(の木)」があった。それと、ニコという名前(!)の心を通わせられる姪っ子も劇中に現れる。
そして、パターソンは自分のノートに手書きの詩を書き貯め、平山はフィルムカメラで撮影した写真のプリントを押し入れに貯めこんでいた。そんなところもよく似ている。
また、それぞれの作品で、実際の文学作品の「本」が重要な小道具として用いられていることも、よく似ている。映画『パターソン』では、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの長編詩『パターソン』などが、『PERFECT DAYS』では、W.フォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、P.ハイスミス『11の物語(すっぽん)』などが画面に映し出されていた。
『パターソン』の最終盤では、二人の男性(アダム・ドライバーと永瀬正敏)が出会い語り合う重要なシーンがあったが、『PERFECT DAYS』最終盤の二人の男性(役所広司と三浦友和)が語り合い、ある「遊び」に興じるシーンは、それに呼応しているように僕には思われた。それぞれのシーンの意味合いは同じではないが、その邂逅が、主人公の暮らしの何かが少し変わるきっかけになっているという点では、同じともいえる。
そしてもう一つ、両者がどちらも「場所」を映し出している映画だということも同じだ。前者は「ニュージャージー州パターソン市」という地方都市、後者はもちろん「東京」。
但しもちろん、この『PERFECT DAYS』にはおそらく、「高踏的」「しょせんエスタブリッシュ側からのきれいごと」「自らのセンスの良さを衒示的に提示していて鼻につく」といった批判は常につきまとうだろう。
以下のリンク先のコラムのように、それに対する「再反論」も可能だとは思うが、僕自身も、もともとのヴェンダースへの好意やルー・リードへの偏愛がなければ、そうした批判的な見方に傾いていた可能性もあっただろうと思っている。
ただしやはり、そうしたネガティブな文脈からの批判を差し引いても、この映画は映画として傑出していると、僕はいま思っている。
「普段交わることの少ない二つの世界、それが交わるときに現れる小さな光」は、おそらくこの映画でヴェンダースが描きたかった事の一つだろうと思うが、それが、日本語で「木漏れ日」という呼び名を与えられた、「光と影によって生み出される美しい現象(表象)」によって象徴されていることも、この映画を傑作たらしめているように思う。
そして、ちょっと蛇足的に『パターソン』について書き足すならば、下にリンクしたコラムが、このジャームッシュのフィルムをバートランド・ラッセルの「幸福論」を補助線として用いながらとても論理的に説明していて、この見方に添うならば、『パターソン』はジャームッシュによる「幸福論」だと捉えることもできる。(僕の見方は、そうした「意味」や「解釈」よりも、この「詩のフォームをした映画」のリズムやライムを「詩のように味わう」ことに重きを置いているのだが、それはさておき。)
そして、こうした意味合いにおいて、『PERFECT DAYS』はヴェンダースによる「幸福論」だと捉えることもできるだろう。
構造的かつ表層的に似て見える二つの映画作品ではあるが、二人の作家の「幸福論」として読むにはもちろん似ている点と似ていない点があって、それは例えば、自分が没する一人の世界と他者との交わりとの、心地よいと感じる関係や距離についての感覚の違いなのかもしれない。あるいは、詩を書き貯めた「ノート」と、日々移ろい定型を持たない「木漏れ日」との違いかもしれない。いずれにせよ、僕にはどちらも、それぞれがそれぞれに素敵だと感じられる映画作品だった。
(了)
以下は、『パターソン』についてのWEB記事。この映画を、プロット、映像、詩作との関連など、多角的かつ鮮やかな手さばきで批評している。