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出雲大社訪問(特殊な点とは)

いずれは行きたいと思っていた出雲大社に遂に行って来ました。
井沢元彦氏の「逆説の日本史」の第1巻第2章大国主命編を読んだ上で行きましたので、それを意識して、出雲大社の特殊性として挙げられていた事項を中心に記載します。


大国主命が横向き

御本殿の大国主命は西向きで、御本殿の南にある拝殿からは横を向いています。

南向きには大和の神が5体配置されていて、拝殿からお参りする際には、それらと正対します。このように御本殿には大和の神を配して、大国主命の監視をさせているように確かに見えます。

大国主命正面からお参りできるように、御本殿の西側に遥拝所という場所が設けられています。

西の遥拝所の札(「御神座」は大国主命、「御客殿」が大和の神らしい)

四拍手

通常の「二拝・二拍手・一拝」とは異なり、「二拝・四拍手・一拝」であり、井沢氏は、「四=死」として黄泉の世界に封じ込めるためのものと推定しています。

なお、「二拝・四拍手・一拝」と明示されていたのは、私の見た限り「西の遥拝所」と「神楽殿」で、拝殿にはそのような掲示は無かったようでした。もしかしたら大和の神に対しては「二拝・二拍手・一拝」でよいということかもしれません。大抵の参拝者は拝殿でも四拍手をしていましたが。

注連縄(しめなわ)が左右逆

注連縄の綯始(ないはじめ)が、一般の神社と左右逆とのことです。他の神社の写真と見比べて、確かに逆でした。井沢氏は、死に装束の左前と同じようなものと指摘しており、これも黄泉の世界に封じ込める呪術なのかもしれません。
それにしても、注連縄が大きい。

神楽殿

日本一の高さだった

平安時代の「口遊」という書に「雲太・和二・京三」と記載され、建物の高い順に「出雲大社、東大寺大仏殿、大極殿」とされていました。井沢氏は、征服された側の出雲の建物が最も高いとされていたことは、実際には国譲り神話のように平和的な経緯ではなかっただろうが、「わ(和)の精神」が最も大切だということを象徴していたのだろうとしていました。
そして「逆説の日本史」発刊後、鎌倉時代のの残骸が発見され、出雲大社が最も高かった証左とされました。

発掘された柱の大きさ(3本で1組)

出雲大社のすぐ横には古代出雲歴史博物館があり、そこには1/10のスケールで復元された模型が展示されています。
当時の高さは約48mとされ、現在の御本殿の2倍です。
天守(再建されたものを含む)で最も高いのは大阪城41.5mとのことなので、それよりもはるかに高いことになります。

1/10スケール復元模型

同博物館には、下のような掲示がありました。
神宮建造は7世紀のようで、国譲り神話の元となったエピソードは4世紀以前と私は考えているので、建造まではしばらく間があったことになります。
また、昔の形式の建物は1270年に失われますが、それまで何回も転倒していたようです。

博物館の展示

その他

拝殿前には以下の札が建てられていて、皇室旧宮家との近さが感じられます。

拝殿前

博物館にあった、付 近から発掘された大量の銅剣とそのレプリカ(壁に展示)が下の写真です。出雲の勢力が大きかった表れである一方、何らかの呪術的な意図で埋設されていたのかもしれません。

博物館に展示されている大量の銅剣

おまけ

国譲り神話について4世紀(以前)と私が考えているのは、以下のnoteによります。


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