日本古代史空白の150年を埋めておく(関裕二説を基に)(2/3)
関裕二氏の古代史(主に古墳時代)の説をおさらいしながら、自分なりのシナリオを作っていきます。
年代の推定
この後、崇神天皇、神功皇后、応神天皇が登場しますが、いつの時代の人物なのか確認しておきます。
(1)推定されている天皇崩御年
日本書紀に従った年代を用いるとなると、「天皇長寿すぎ問題」があります。その修正結果として、前回も参照したYOUTUBE「燃え盛るように熱い日本古代史[ハルキー](後述A:古事記から推定される年代を補間)と、長浜浩明氏の著作「日本の誕生」(後述B)を参照しました。
いずれも2年を1年とカウントする方法を採っていて、Aでは「2倍歴」または「2倍年齢」という用語を用い、Bでは「春秋年」という用語を用いています。
応神天皇は、A(古事記)でもBでも4世紀末頃であることに変わりありません。
崇神天皇は、A(古事記)で4世紀初め、Bで3世紀前半となります。
(2)神功皇后はいつの人か
Aでは神功皇后については直接の推定はありませんが、その前後の天皇崩御年は362~394年、Bでは355~410年で、神功皇后の活動期間は4世紀後半で共通しています。そのため、卑弥呼の没(248年)後1世紀経過していることになります。
神功皇后は、日本書紀において、卑弥呼と同時代とされていますが、三韓征伐をした人物ともされています。広開土王碑によると391年から404年まで、断続的に倭は朝鮮半島に派兵したことになっていますが、Aでは三韓征伐直後に産まれた応神天皇が派兵の途中で死亡したことになりますし、Bだと神功皇后の死亡後に三韓征伐をしたことになり、いずれも時期が合いません。
関氏は「神功皇后が4世紀後半の人物なのだから」とした上で、日本書紀と同様「3世紀の人物と解釈すれば」「ヤマトと北部九州の主導権争いが、正確に、詳細に再現できる」として、日本書紀に示される時代に則り、”神功皇后=トヨ(台与)”として話を展開しています。(「古代史の正体」では”トヨ”であることには触れていないので、以下ではトヨであることには触れないことにします。)
以下はその前提に立ちますので、読む側としては混乱を来たしがちです。
邪馬台国の行く末と神武東征
関氏によると、以下の経緯となります。
(1)神功皇后により邪馬台国を支配下に
日本書紀では、神功皇后は日本海側から豊浦宮に入り、6年間の長期滞在をしたことになっています。関氏は、その6年間の内に 、奴国と連携し、豊の国の西の外れの日田盆地(北部九州の急所)を押え、北部九州沿岸地帯の首長たちの恭順をもたらしたと推論しています。
(2)邪馬台国とヤマト
本居宣長らによる「邪馬台国偽僭説」という、本物の邪馬台国(ヤマト)は奈良にあったのに、九州の女酋が、「我々こそ邪馬台国」と偽って魏に報告していたというものがあるのだそうです。
これに対しヤマトが、神功皇后を差し向けたわけですが、邪馬台国は魏には本物の邪馬台国から攻められているとは言えず、これを狗奴国に攻め込まれたと報告したのではないか、と。
(3)出雲の衰亡
東海は瀬戸内海勢力に組し、経津主神(ふつぬしのかみ:物部系:吉備か)と武甕槌神(たけみかづちのかみ:尾張氏)の圧迫により、出雲は国譲りを受け入れることに。
(4)日本海勢力vs瀬戸内海勢力
神功皇后が北部九州を押さえたことにより、日本海勢力と北部九州が一体となり、瀬戸内海勢力との対立が激化しました。
神功皇后と応神天皇は、瀬戸内海勢力に裏切られて追われ、行動を共にしていたのが武内宿禰(すくね:蘇我氏の祖先)。天孫降臨の地、日向に逃れたのではないか、と。
(5)神武東征のエピソード
東征をしたのは神功皇后の子である応神天皇で、その話を日本書紀では、応神・崇神・神武に分けたのではないかという見解です。
疫病流行に苦しむ崇神天皇が厄除けのため、日向に逃れた貴種の末裔(応神天皇)を招き寄せた、すなわち、崇神天皇は神武東征でのニギハヤヒではないか。
つづく