保育と社会福祉を漫画で学ぶ 『 アイ’ム ホーム』(石坂啓,1999)と高次脳機能 障害
石坂啓さんの『アイ’ム ホーム』(上下巻,小学館,1999)は、家族とは何か、高次脳機能障害について、また中途障害者、つまり人生の途中で難病や交通事故などで障害を負った人たちの生き方について考えるきっかけを与えてくれる作品です。1999 年の文化庁メディア芸術祭大賞受賞作で、木村拓哉さん主演のドラマにもなった作品です。
主人公の久は、離婚して家を出たのでした。
妻とスバルと三人で過ごした家は「慰謝料がわり」として妻に引き渡したもの。スバルに最後に会ったのは一年前の誕生日でした。
久は事故で記憶が欠落しており、たびたび手帳のメモに頼っています。
最寄駅から自宅への帰り方、まわりの人間関係などのほか、日々あったことを手帳にメモして見返していますが、別れた家族のことは忘れており、幸せだった日々の記憶だけが残っていたのです。
久は「自分の家」に帰ってきたつもりだったのですが、その家に住む元妻と娘は、久が記憶を失う前に傷つけ、分かれを選んだ相手だったのです。
おまけに元妻は再婚して新たな三人暮らしを始めています。
そこにいきなり上がり込んでしまった久はスバルに謝り、現在の家族のもとに帰ることにします。
しかし久は、現在の家族を「本当の家族」とは感じられなくなっています。 事故で入院していた久のそばには同居していた妻のヨシコ、息子のヨシオ、義理の両親の 四人が付き添っていました。
意識を取り戻した久は家族を見て驚きます。
四人全員がひきつった笑顔の仮面を被っているように見えたからです。
それから半年がたっても仮面を被っているように見えるままで、家族の区別すらつきません。
スバルは久を「まだらボケ」と言います。
記憶が部分的に欠落しており、過去の記憶が点々と残ってしまい、間を省略して現在につながっているようです。
周りの人たちは記憶を失う前の久の言動をもとに久に接するのですが、久にはその脈絡が読めません。
「高次脳機能障害」は、事故などによって脳に損傷が生じることによって起こる障害です。
新しいことを覚えることが難しくなったり(記憶障害)、注意力が低下したり(注意障害)、何気ない動作が困難になる(失行症)、よく知っている人の顔を見ても誰だか識別できない (失認症)等の症状が見られます。
久のように、性格の変化が起こる場合もあります。
「高次脳機能障害」の当事者の中には、一見、社会生活が問題なくできている人もいます。
身体障害のように他人から見て分かりやすい障害ではありません。
また本人としても、自分の障害を受け入れにくい場合があります。
事故後の久は、過去のことがわからず、自分の状態がつかめず、不安感もあるためか、謙虚で弱気な人物です。
周りの人たちの言葉の端々から、どうやら事故前の自分は元妻と娘を捨てたらしいこと、親友の彼女を寝取って再婚したらしいこと、仕事はよくできたらしいことなどが分かってきます。
事故前の久は、とんでもなく嫌な人間だったようです。
優秀でやり手だった久は、「俺はできる」という記憶をもとに社会的成功者としてのアイデンティティを生きてきたのでしょう。
しかし、過去の記憶を失った事故後の久には、どれもこれも現実感のないお話のように感じられます。
他者から眼差される久のイメージは、その相手が見た「過去の久」の記憶がもとになっています。
現在の久と過去の久、他者から眼差される久はすべて違うものですが、社会生活をする以上は、誰しもがそのいずれにも折り合いをつける必要が出てきます。
私たちは皆、それぞれに自分のそれぞれの記憶と、他者の眼差しとの間で、バランスを取っています。
人間の自我とは、実際には記憶の束でしかないのかもしれません。
その束がほどけてしま うと過去の出来事どうしのつながりが見えなくなり、現在との脈絡が覚束なくなってしまいます。
ある人の記憶が「正しい」と認めてもらえるのは、まわりの人の記憶と比べて、ある程度 以上の共通性があると思ってもらえたときです。
でもこの共通性というものも、実はあやふやなものです。
「まだらボケ」の久の記憶よりも若くてしっかり者の娘・スバルの記憶の方が、より多くの人の記憶との共通性があるということは言えます。
ですが、どちらがより「正しい」と言 うことはできないのではないでしょうか。
スバルの記憶の中での久は、「この人はお父さん」「お母さんと離婚した人」「別の女性と再婚した」「今は別の家族と暮らしている」といった一連の連なりになっています。
ですが、これであっても彼女の身近にいる人たち全員が、一斉に同意しなくなると、途端に「正しい 記憶」ではなくなってしまいます。
少なくとも、元妻とスバルと一緒に住んでいた家に勝手に上がり込んだ久にとって、その時点での現実は「ただいま、帰ったよ」で間違いなかったはずなのです。
過去の自分の言動が分からなくなったとすれば、もし仮に過去のふるまいを責められたとしても、その意味が分かりません。
理不尽なことをされたと感じ、怒るかもしれません。
でも責める側には責める側の理由があります。
両者に共通性がないとすれば、私たちは何をもとに判断すればよいのでしょうか。
久には自分が出て行ったはずの家、元妻と娘と三人で過ごした記憶の場所が、「自分の戻るべき場所」のように思えて仕方がなくなってしまいます。
認知症になった人たちも、過去 に過ごした「あの人」との「あの場所」にもどることを切望することがあります。
記憶は美化されたり、細部が省略されたりするものですが、本人にとっては強いリアリティがあります。
私たちは記憶の束を手掛かりに、愛着のあるもののもとへたどり着こうとします。
愛着が満たされれば安心してしまいます。
周りからすると「現実ではない」「本当ではない」ことだったとしても、科学的には「脳の誤作動」だったとしても、そこに人間の人間らしさがあるのかもしれません。
世の中には、社会的成功のルートを最短距離で駆け抜けていく優秀な人がいます。
しかし、ゆっくり走ることで見えてくるものもあります。
ときに優秀な人が見落としていたものがあり、ゆっくり走らないと見えないものもあります。
社会的成功や優秀を追い求めることも大事ですが、そこからこぼれ落ちることではじめ て見えるものもあります。
社会福祉を学ぶ私たちにとっては、どちらも大切です。
紹介作品:石坂啓(1999)『アイ’ム ホーム 上・下』小学館
※本エッセイで紹介した作品中のセリフなどは、読みやすくするために、意図を損なわない程度に改変している場合があります。
参考サイト:国立障害者リハビリテーションセンター「高次脳機能障害を理解する」 http://www.rehab.go.jp/brain_fukyu/rikai/ (最終確認 2022.05.13)
本エッセイの初出は「対人援助学マガジン」49号(2022)です。
https://www.humanservices.jp/magazine/number49