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問うこと、問われることについて(改稿版)
うつにしろ双極症にしろ、統合失調症にしろ、精神疾患は、とても辛いものである。
その辛さの中には、多くの「何故」や「どうして」が含まれているが故のものもある。いや、場合によっては、これらが全てなのかもしれないと思わされることもあるほどのものである。
いつまで戦えばいいのか、何と戦っているのか、戦っているとして、勝ち目はあるのか、そして何のために戦っているのか。
このような問いたちに、明確な答えを出せる人がいるだろうか。
例えば、「なぜ私がうつ病にならなければならないのか?」という問いに、「多くのストレスがかかっていたから」とか、「抱えているものが大きかったね」とか答えられても、そのような人は世の中には沢山居る。
「なぜ私なのか?」という問いかけに対して明確な答えなどないのではないかと言わざるを得ない。
「たまたま運が悪かった」などは気休めにもならないと怒りを表明することもあるだろう。
前述した様々な精神疾患者が口にする問いかけは、では一体何のためになされているのだろうか。
もちろん、その問たちに対して明確な答えなどがあればそれで納得することも出来るかもしれないが、ここまで書いたように、それは期待できない。
それでもこれらの問いを発せざるを得ないのは、何故なのか。
私は、その根源にあるのは、精神疾患者という存在を賭けたものであるのだろうと考える。
「私は、もしくは私たちは精神疾患者であるが、そのような存在をどう思うのか?」
精神疾患者を含めて社会というものは存在しているのに、「なぜ私たちはこのような苦しみの中で生きなければならないのか」というものである。
このような問いを発すること、つまり問うことがなされるのは、問われている社会の在り方、つまり問われる主体も存在していることと表裏一体だと考える。
精神疾患で苦しむ者が問うのは、問われる側が精神疾患に対して、その存在をどう見ているのか、考えているのか、扱っているのか、どうしてきたのか、を明らかにし、同じ人間であることの変わりの無さと、疾患を抱えて生きることという健常者とは異なる、つまり変わりのある存在を受容するのかという存在の訴えなのだと思うのである。
もう一つの観点から言うならば、精神疾患者は自問せざるを得ないのである。
「なぜ」という問いに対して、「では、それを抱えてどう生きればいいのか」というものである。
何も、社会や環境だけが疾患となる原因を全て持ち合わせている訳では無いはずだと思うからである。
環境要因はあるにせよ、個人の要因が無くなる訳では無いだろう。むしろ、環境要因を変えることは難しい場合がほとんどだと言える中で、ではどうすればいいのかと考える時、自分が変わることであったり、それまでは受け入れることが難しかったことを受け入れられるようになったり。
これらは全く個人的なものであるために、答えは人の数だけあるものだと思うのであるが、それを見つけていく。一人では難しい場合もあるために、主治医やカウンセラーをはじめとする信頼できる人、家族や友人や恩師かもしれない、と共に一緒に考えていくということが必要な場合もあるだろうと。
そのような作業によって、はっきりとしたものを見つけることは難しくとも、その人らしく生きることに近づけることがおそらく必要なのであり、これらは、社会へ問うこと、社会が問われること、自分へ問うこと、自分が問われること、つまり考えていくことにより自身の生き方とその存在を確認、確信していくこと、社会の中に自分がここにいることの確かさを常に考えていくことなのだろうと思うのである。
問うこと、問われること。
己の存在を賭けることよって、意味が見出されてくるものだと考える。
それは辛く、苦悩の時間となるとしても。
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