「木は二度生きる」Trees live twice
野菜であれば、
一定の時期に種を蒔き、見守り、収穫するというのが
一連の流れで、畑と種があれば自給することが可能だ。
木の製品といえばどうだろう。
森から木を切る森林組合や木こり、
切った丸太を板にしていく製材所、
製材所の木を異なる形にしていく
職人さん、と経て、
商品としてお店に並び、消費者の元へ届いていく。
この一見、当たり前のような一連の流れは、
今時代と共に消えつつあり、
そこに価値を生み出し、新たに再生していくことが、
ここヒダクマ((株)飛騨の森でクマは踊る)の役目の1つでもある。
そもそも、今回、製材所、職人さんとの工房での打ち合わせに同行し、
森から木を手にするところから、実際にそれが形を変え何らかの製品へとなっていく、
それまでの時間や労力、そして携わる人や想いを知り、
胸が熱くなり、大きな価値を感じた。
森から木が運ばれ、職人さんが新たな命を吹きかける。
わたしは木製品の流れをそのようにイメージしていた。
そこで抜けていたのは、製材所の存在だった。
雪降る氷点下の天気の中、
広葉樹豊かな山の目の前にある西野製材所。
今までに見たことのない量の丸太、板になった状態の木が
そこらじゅうに並べられている。
そとでまず目に飛び込んできたのは、
丸太の上がシャワーを受けているところで、
そもそも木が凍ってしまうことを私は知らなかった。
凍ってしまった木を溶かすために水は出しっぱなし。
その丸太の上からは湯気が出ている。
木は最低1年間乾かさないと使うことができない。
急速に乾かせば、木が死んでしまうからだ。
近年は、大量に生産することが当たり前となってしまい、
安いすでに板になったものを使うようになり、
長年引き継がれてきている製材所の存在は非常に貴重となってきている。
驚くべきことを聞いた。
それは「木は二度生きる」ということ。
例えば、樹齢100年の木であれば、
上記のように、木が生きている状態で乾燥されていれば
木は土から離れた後も、その樹齢年数である、
100年、生きているのだという。
考えたことがあるだろうか?
今座っている椅子が、本がのっているテーブルが、
実は、まだ生きていると。
以前、大根はいつまで生きているのだろう?
とシャロムで畑スタッフと話したことがある。
「収穫して、土から引っこ抜いたときなんじゃないか。」
ふっと、わたしは思った。
土からの栄養分を摂ることはできない、
かといって、「大根は死んでしまった」訳ではない。
でも、生きているというのはどこだろう、そう思っていた時、
彼女は、「でも大根は、時間が経つと、水分が蒸発して、
しわしわになっていく。それは生きている証拠じゃないか」
といい、とても納得した。確かにそうだ。
生けている花も、咲いている時だけ生きているのではなく、
朽ちていくその瞬間も生きており、
枯れてしまった花にも美しさがあるし、
だからこそドライフラワーなども生まれていったのだろう。
木の話を戻したい。
そう、木も生きている、ということである。
ただ、木は、野菜や花と異なり、とても大きい。
運ぶだけでも、重労働であり、人手が必要で時間もかかる。
そして、数年ですぐに育つわけではない。
そういう時間の経過も忘れたくない。
木と木の皮の間には、虫がいることもあり、
そのままだと腐ってしまうので皮を向き、乾燥させていく。
皮の剥がされた部分は捨ててしまうかと思えば、牛の寝床になるのだという。
無駄のない、持続可能な循環がここにもある。
皮を剥いた丸太はいくつかの種類の機械によって、
形成されていき、板となっていく。
豪雪地帯であるこのエリアのことを想うと、
寒い中、除雪車を使う手間や、凍っている丸太を溶かす作業、
雪をどける作業、そして体の芯まで冷えるこの気候を思うと、
頭が上がらない思いだ。
そしてその沢山の人が携わってきた
板が、いろいろな製品へと生まれ変わっていく。
例えば、環境と人との関係性を大切にしている
エシカルビジネスとしても名の知れる企業とのコラボ製品がある。
デザイン性と機能性を追求した、
どこか木やデザインから感じる温かみとセンスを
感じる、手に取りたくなる、この商品であり、作品。
デザインを手がけ、サンプルを作ったヒダクマの工房スタッフは、
フィンランドでデザインを学び木工の技術を活かして
現地の福祉施設で働いていた経歴がある。
いつもお世話になっている製材所で
製材された木から生み出した作品は、
職人さんを経て、一つ一つ創り上げられていく。
特にこだわったポイントは、
この丸みのある、でもどこかセンスのある形状かと思ったが、
意外なところだった。
その品の頭の部分にある紐を通す部分である。
購入者は紐を自分で選ぶことが出来、通せるので、
それぞれの広葉樹の持つ色や手触り、香りといった個性とは
また別に、自分の好みを組み合わせることができる。
その紐を通す部分、紐の通しやすさと絶妙な穴の大きさと位置など、
もしかすると、その絶妙な職人技に気づく人は少ないかもしれない。
でもそのもしかしたら気づかないかもしれない、
それでも存在するその職人魂こそが、素晴らしい技術と
想いの価値を証明しているのだとも思う。
そのサンプルのその一品を元に、
飛騨の職人さんに制作依頼をしていく。
お互いの職人魂がコラボレーションする瞬間だ。
木の材質や、塗料のタイプ、
一枚板の方が喜ばれるのではないか、
廃材をうまく利用することで無駄になってしまうものに価値を持たせたい、
と購入者の願いを想像しながら、出来る限りのことを技術で追求していく。
ロゴの大きさが全く同じか、サイズや薄さは、手触りは、
完全に機械生産のものとは異なる、
職人の感覚の中で生み出す一品。
若干の違いや、こだわりの紐通しの穴の位置のずれまでも、
妥協なく話し合いを重ねながら作り出していく。
互いの持っている技術や可能性、
そして、時代を受け継がれてきた伝統。
それらが見事に絡み合い、
Made in 飛騨 の商品が全国へ、世界へと、
繋がっていく。
当たり前の、こだわりの高さに、そしてその技術と想いの熱さに、
こちらまで胸が熱くなり、
一つ一つの品のもつストーリーや価値、
そしてその一つの物に携わる人たちの表情と想いが浮かんでくるようだった。
写真引用元:https://www.flickr.com/search/?text=hidakuma
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