大河ドラマ平清盛のドラマ構成について私見

以前、大河ドラマ平清盛を見た。

源義経の活躍で平家が滅んだ喚起に湧く御家人達を静止し、「平清盛なくして武士の世はこなかった」と口にした頼朝の場面から幕開けした所からわかる通り、本作は頼朝が語る清盛の物語であった。
この作品を見て感じたのは、1年ものの作品を2本見たと感じるぐらい濃密な一大大河ドラマであったということだ。平清盛を主人公にしながらも前半と後半で物語の主題が大きく変わり、取り分け後半は頼朝が清盛にぶつかる機運を大いに高める描きぶりであった。


前半:武士とは、朝廷とは、そして己とは

物語の前半を簡潔に言うと、「平氏とは血の繋がりがない清盛が、どのようにして平氏の棟梁たる人物になるのか」という物語であった。

白川院の落とし胤として生を受け、平氏の棟梁・忠盛に引き取られた清盛は「面白くない世を面白う生きる」との元、王家の犬で終わらない武士を目指し北面の武士として鳥羽院に仕える。そのきっかけを与えた源氏の御曹司・源義朝や清盛と同じく北面の武士であった佐藤義清、早すぎる死を迎えた最初の妻・明子…朝廷の内部や混迷極める都の在り様を知る中で、やがて「平氏を率いる立場に立つとはどういうことか」を考えるようになり、祇園闘乱事件を通じて“この世”に生きる意義を得る。

その矢先の家盛の死、忠盛との別れを経て平氏の棟梁となると、朝廷を二分する戦で自らの力が試されることになる。

その戦、保元の乱で武士が「王権の犬」から脱する格好の機会が訪れると思われたのだが、清盛は世を変えるには朝廷そのものに取り入ることが必要と身に染みて気づく。物語前半の清盛はあらゆる現実に反発しながら、この世に生きる道筋を定めていく様子がふんだんに描かれる。
そして、力をもって武士の地位を上げることを一貫して主張してきた義朝と対決し、捕らえた義朝の子・頼朝に向かいながらも彼に対して語るように武士の世の到来を目指すと宣言するのが、前半の第二の山場にあたる平治の乱である。

これだけを話すとパワフルな若き清盛の姿が浮かび、制作サイドが掲げた「たくましい平安」そのものなのだが、この作品全体を包み込むのが「遊びをせんとや生まれけむ」から始まる今様だ。
清盛の産みの母である舞子が口ずさんだ優美な調べは、忠盛に舞子の姿とともに深い印象を残し、清盛の奥底にもその息吹が流れる。その調べはもともと舞子の師匠筋にあたる乙前が歌うものであったため、乙前が白河院亡き後故郷・青墓で、芸事の盛んな地と聞いて来た雅仁親王と劇的な出会い方をする。平氏の場面に限らず様々なアレンジで劇伴として物語を彩る旋律は、あらゆる登場人物の根底に流れる「この世を生き抜きたい」という思いを演出する。

平氏、源氏、朝廷各サイドを風のように吹き抜け、あらゆる登場人物にとって生き抜くことへの “祈り”となるメロディー。番組冒頭に流れるテーマ曲にも使われ、曲全体の構成もこういったドラマを象徴している。

あらゆる登場人物が様々な「ありたい自分像」を持っていてそのために動くが、その背景には「惜しむことなく生きていきたい」という気持ちが通底している。だから戦によってその生が絶たれてしまう者への無念が立ち上がってくるのである。

後半:孤独な清盛を救うのは誰?

熾烈な戦いの末功績が認められた清盛が公卿となると、清盛はあらゆる人々の思いを背負い自らが考える国造りへ邁進していく。その先に全てが報われる時が来ると信じて。物語の後半はそんな清盛を描くとともに、徐々に頼朝へ焦点があたる。平治の乱で親兄弟を失った頼朝にとって、伊豆の暮らしはそれが尾を引いているのか呆然とした日々。清盛、ひいては今作の多くの登場人物のポリシーである「夢中になって生きる」から程遠い所にいるのが(成長した)頼朝の第一印象である。

今作の清盛と頼朝に共通するのは、命がなかったかもしれない存在として描き出されている点だ。しかしそこに対する2人の意識は全く異なる。
忠盛に引き取られたことで忠盛の「武士を王家の犬で終わらせない」という生きる意味に触れ、国に禍をもたらすと言われながらも生き永らえたせっかくの命を真っ当しようとする清盛。
一方頼朝は幼い頃から由良御前を通じ源氏の嫡流としての誇りを教えられていたが、敗軍の将の子となりながらも清盛に助命されたことでその意識も薄れている。自分は命がなかったはずの存在で、敗軍となった源氏の嫡流の子としてそうありたかった。だから生きている心地がせず自分がなぜ生きているのかが分からない。伊豆で暮らす頼朝にはそんな意識があるように思える。

これらを踏まえると今作で頼朝に清盛を語らせた意図が見え、終盤になると2人の対比がもう一段加わる。前半で描かれた朝廷-平氏・源氏という構図が、平氏-源氏へとスライドされていくのである。

清盛は平氏とは直接の血の繋がりはないが、忠盛の精神を受け継ぎ平氏を藤原摂関家が頭を下げる程巨大な力を持つ一門にまで発展させた。その力はさらに肥大化し、清盛は自身の夢である武士が頂きに立つ世を作るべく奔走するがその夢しか眼中にない状態に陥ってしまう。その弊害が各地で発生しても、清盛の歩みは止まらない。自分の夢への歩みを止めることは亡くなった者の無念を反故にすると言わんばかりに。
そうして出来上がったのは武士の世どころかあれほど嫌っていた白河院が言っていたような「わしの世」として、長年自分を苦しめてきた朝廷に対する復讐の体を成してしまう。そんなわしの世に対して他の者の邪魔立てを許さないというのは、朝廷や摂関家が自身の権力を保つことしか考えてないせいで政が機能せず民の暮らしの窮乏が黙殺されていたかつての都と同じ構図を持つ。
そこへ、清盛から「武士が世の頂に立つのを見ておれ」と言って助命され、源氏の嫡流でありながらもその名から遠く離れていた所を政子との出会いで心に火がついた頼朝が、挙兵するに至るのである。

朝廷-平氏・源氏で30話、平氏-源氏で20話。前半・後半それぞれで1年ものの作品並みの見応えある展開を繰り広げる。だからドラマの集大成は清盛と頼朝の対峙という展開を夢見る。頼朝も富士川の戦いに戦わずして勝ったすぐ後に「このまま京に攻め上る」と話しその機運を高めているが、東国には頼朝に従わない者もいるため、鎌倉を本拠地に東国をまとめることが先決だと諭される。
それならその先で清盛との対峙が待っている。そう視聴者は思ってしまう。少なくとも私はそうだった。

だがそれが"大戦"という形で実現する前、清盛は病に倒れる。
周知の通りだ。
清盛には、自分の生が終わる直前に言い残した言葉があった。

自分が生きている時に頼朝と直接ぶつかることはなかった。でも自分の命が尽きたら平氏と源氏の因縁が消える訳ではないのだから、残る一門は頼朝との大戦に臨んで欲しい。その勝負の証は自分の墓前へ供える頼朝の首。清盛はそう言いたかったに違いない。

周知の通りなのに、清盛が頼朝と直接ぶつかる前に亡くなる無念がこみ上げてくる。
しかし視聴者はある程度予想できる。
清盛が死んでもまだ今作の‟ドラマ”は終わっていない、清盛と頼朝には何かあるはずだと―

清盛亡きあと

清盛が死を迎えてから程なくして平家は都落ちし、やがて滅亡を迎える。一門それぞれの最期は頼朝によって語られた。忠盛と為義の代から話題に挙がりながらも持ち越され、清盛の代でまず発生した武士の二大勢力・平氏と源氏の力比べは、子らの代へと継承されていった。

清盛によって親兄弟を奪われた一方自身は助命されたという背景も作用したのか、生きることに無気力な状態だった所から清盛とぶつかる気概を見せるまでになったも遂に戦うことがなかった頼朝が「平清盛なくして武士の世はこなかった」と言ったのは、継承されてきた平氏と源氏の関係性に、「清盛と頼朝」というラインの存在を訴えたという意味もあるのではないだろうか。
そうすると本作とは、世代と世代がちょうど重なるような形で継承されていった平氏と源氏の力比べの様子を鑑賞している視聴者に、頼朝と清盛の関係が確かに存在したと主張する物語といえるのかもしれない。これもまた「継承」の一つと言えるだろう。

その後頼朝は、平家を滅亡に追い込んだ義経の振る舞いに難儀し彼を討つ決断をする。しかし身内同士で殺し合う苦しみを知っている頼朝の心は揺れていた。
そこに現れたのは、折り目折り目で清盛の生涯を見守っていた西行。東大寺復興を勧進する目的で来たが、「あの方」よりの遺言を預かっているという。
西行が預かっていた清盛からの遺言で頼朝の迷いは消え、こう話す。

源頼朝「これが私が選んだ道。武士の栄華へと続く道じゃ」

第50回「遊びをせんとや生まれけむ」より

清盛から頼朝へ"接続する"ドラマは、これをもって完結した。

私は最終回の一連の場面を見た時に、「ここまで頼朝が清盛を語るのに適任だったのか」と驚かされた。「生き抜く人々」を描いてきたドラマの後、頼朝は新しい時代を牽引していく存在になるのだから、平家滅亡を含めこの作品で“清盛死後のその後”を語るべきなのも、頼朝なのだ。
清盛の意志を継いで武士の世を作る頼朝。自分で自分の夢を叶えられなくても、自分の意志を継いでくれる人がいる頼もしさ。だからこそ清盛が一門の皆が待つ海の底の都に笑顔で向かっていったエンドクレジットに、視聴者は清盛と同じような感激を感じるのだろう。


1周見終えて感想を綴ったが、まだまだ拾いきれてない部分や考えが深まり切れてない部分があるのでは、という気持ちがある。今の時点で書き記しておきたいのは、平清盛という人物は大河ドラマの主人公として格好の人物だったということだ。普通のドラマの主人公2人分に相当する物語が清盛の生涯に詰まっている。そのような印象を強く持った。


ドラマの題材として非常においしい所を新解釈や演出がさらに盛り上げ、その熱意が画面いっぱいに表われている…
そこが、今なお多くのファンにこの作品が愛されている理由なのだろう。


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