悩みや辛さを文章化する
過去のこと
普段は資格の勉強ばかりしているような感じでもありますが、僕も色んな経験を経て今の自分があります。
自分自身が大いに反省すべきこともあれば、色んな要素が絡まり合って自分に不遇な状況が訪れたこともあります。
しかしそれらのことは、僕の読みが甘かったということがほとんどです。
もっと詳しく言えば、人間観察、いや人間が千差万別であると頭ではわかっているくせに、そこに自分の物差しを当てはめてしまうという、なかなか脱却できない悪習癖あることが原因です。
ここはとても難しいところだと思います。
例えばルールを守るということは人間社会では大前提だと思います。
僕も決められたルールは守るのが当然だと思い、ルールを守ることを前提として生きています。
が、往々にしてルールを守らない人が身近にいたりしますよね?
人がルールを守らないというときは、
そのルールを守らなくても自分は困らない
そのルールを守らなかったら他人に迷惑がかかる、ということを理解していない
といったときではないでしょうか。
そういったとき、僕や他者ひいては組織に関して影響を及ぼす場合、立場上僕もそのことについて指摘しないといけないことがよくありました。
ですがここが難しいところで、相手によっては
「自分は頑張っていたけどちょっと忘れただけだ」
みたいな言い訳を返されることもあります。
これまでの人生でもう何度もこういった言い訳を耳にしてきましたが、中には指摘をするこちらの方に問題があると見なす人達もいたりします。
そういう人達に遭遇してしまったときはほんと不運でもあるのですが、しかしそこからどう動くかはこちらの力量です。
そういったところに、冒頭に述べた通り、自分の読みが甘さ(人間というものを理解できていなかった)が出てしまって、好ましくない結果を招来してしまうこともありました。
しかも「相手がルールを破った」という事実はどこかに消えてしまったりするわけで、ぶっちゃけ相手のルール違反で元々こちらが迷惑を被ったのに、さらに悪者にされてしまうという不可思議な結末です。
これじゃ二重の損ですよね。
でもこの構造ってのはよくあることで、巷を賑わすニュースなんかでも同じですよね。
サッカーでも挑発された側の方が何かとやらかしてレッドカードを食らったりとか。
ほんと色んな人達がいる。
特に感謝の念なんて幻ではないか?とか思えることも多々ありますし、他責思考の人達の方が大多数を占めるのではないでしょうか。
それがわかっているはずなのに、どうしても自分の物差しを当てはめようとしてしまう。
と、過去にあったことはそれとして、あくまでも過去にあったことであり、相手をしなければ良かったとか、ああやってれば良かったとか、今悔やんでもな~んにも変わりません。
自分がやれることは、修正して次の機会への備えに繋げることだけで、これは先日からカーネギーを読み返していますがすっかり忘れていたことでした。
過去をどう悔やんでも、変えられない。
しっかりした修正案を自分で作り上げたら、次からはしっかりとその場その場で適切な対処ができる自分を目指すだけです。
もちろん過去を「全て」忘れて先に進むというわけではなく、自分が他人に対して迷惑をかけたとか、嫌な思いをさせてしまったというのはまた別ですから、そういったことは今後の人生ずっと反省するものとして自分の心に据えて置く必要はあります。
文章化
実は先日(というかそれなりの期間ですが)からずっと辛い気持ちが心を占める時間があり、そういうのは時間が解決してくれるのは過去の経験からわかってはいるのですが、さすがに歳を取ってくるとそういった時間というのもとてももったいないものですので、ずっとモヤモヤした状態はなるべく払拭したいとも考えていました。
そこで昨夜ふと、そのモヤモヤが、ある出来事の回想シーンみたいなものが頭に浮かんだときに生じるというということに気付きました。
このことに何とか対処できればこのモヤモヤ期間をある程度軽減できるのではないかと思ったのです。
そこで考えてみました。
まさに嫌なシーンが浮かんだ時にモヤモヤする。
何故モヤモヤするのか?
→嫌なシーンだが、何故嫌だったのか、自分がどう思ったのか、実質的には自分はどう解釈して、どう反証して、どう感じて、どうしたかったのか?何故そのシーン(その状況)が生じてしまったのか?
これらのことを省み、その内容を踏まえ、自分がこの先はどう考えてどうすべきなのか?
ここで気づいたのですが、これらのことを明確に整理できていないから、モヤモヤするのだろう、と。
そしてさらに対処法を考えました。
上記のことを言語化して、明確に、文章として表す
そこからどう考えてどう動くかを、文章として表す
それらを実践していく
こうやって思いや気持ちを明確にし、そしてそこからの考え方や行動も明確に文章にすることで、それに沿って動くマニュアルを自分に作ってやればいいということです。
これはなかなか良いのではないかと思って、何か参考になることはないかと、自分がPDF化してiPadから読めるようにしている書籍群を探していて「そうだった」と気づきました。
こういうときこそカーネギーを読むべきだと。
もう人生の中で学生の頃から何度か読んでるのに、この2、3年読み返すことがなく、そのために自省や心掛けるべきことを忘れてしまっていた、と猛省しました。
僕は「人を動かす」と「道は開ける」をPDF化していますが、斎藤孝先生がもっと簡略にまとめられている「齋藤孝が読む カーネギー『道は開ける』」という書籍もPDF化していて、こちらの方はスイスイ読みやすいのでこちらを昨夜から読み始めました。
するとこれもすっかり忘れていたのですが、「悩みは紙に書きだして頭で整理する」といったチャプターや、「解決策を出して行く」というチャプターがあったことを思い出しました。
何度も読んでるのに忘れてしまうとは我ながら情けない限りでしたが、それでも自分で文章にするという方法を導き出せたのは何となく頭の片隅にカーネギーの教えが残っていたのかもしれません。
自分を大切にする
必要以上に後悔してばかりで、自分を蔑んだりしていると、身近な人達にも影響を及ぼしてしまうため、そういった状況は早めに抜け出す必要があります。
僕も選択を誤った(前述の通り、読みが甘かった)ことがあり、ずっと憂鬱な時間が続くこともありましたが、人生は思っている以上に時間が短く、憂鬱な時間はできる限り払拭したい。
悩みや憂鬱な心の分析は率先してやるとして、そこから必要なのは悩む習慣をやめることだと思います。
形上どうであろうと、自分が辛いを思いをした過去、人に迷惑をかけた過去、人に嫌な思いをさせた過去、その事実は覆せない。
それらを思い憂い続けることは何も生み出さない、それは明白。
ではそういった憂いは払拭し、自分の精神を良好に保ち、どこにこれからの自分の目的を置くのかを明確にして、例えばこれからは人を喜ばせることに注力する。
そもそも自分なんてまだまだ人間ができてなくてバカだから、人様から批判されるのは何でも受け入れよう、くらいの気概で進んでいく。
自分は崇高な人間であると思うよりも、自分はコリン星から来てまだまともな人間にもなれていない、そんな感じで先に割り切った上で日々進んでいく方が、これまであった色んな出来事のことを考えたらそっちの方が良い結果を生んだんじゃ?と思ったりもします。
人を批判するときは人よりも自分の方が優れているという考えが内在してしまっている、ということに自分は気を付けるべきだと最近痛感しています。
これは冒頭にも述べた通り、いろんな人がいる、それが社会!みたいな感じで最初から受け取っていけば、日々遭遇する色んな人間にいちいち憤慨することもないのではないかと。
色んな人達にも、その色んな人達の今を形成するに至った「成り立ちの理由」があるはずで、皆が一様に等しい教育とか躾けを受けていたらそもそもルール違反とか世の犯罪とかも無いはずですからね。
こういった形で、ある程度の「割り切り」「前持った、見なし」「まあそんなもんだからね」みたいなものが根っこにあれば、結果的にはそれが自分を大切にすることになるんじゃないかと思うわけです。
ルール破る人も世の中にはいるわけで、そのすべてに腹を立てたり相手していたらこちらの方が損をすることばかり(だと経験上思います(笑))。
少なくとも直接的な害が自分や自分の大切な人に及ばないのであれば、そんな人達もいるよねと、そういった人達からは距離を置くか、何か言われたり何か為されたりしても路傍の石ころのように思っておくのがベストでしょうね。
逆にそう受け取っておいて自分からは何も生まないことで、余計なトラブルも回避することができるはず。
もしも辛いことや失敗してやらかしてしまったことがあったとしても、考えるべきことは、この先は人が喜ぶようなことをして、自分の辛い過去をなるべく遮断して和らげる(それが過去の贖罪にもなる)。
いい意味で過去を遮断して、人に尽くすことで自分を大切にしていくのがよいのではないかと思います。
tomo拝
(追記)
余談ですが、みなさん「まなゆい」を御存知でしょうか?
相手のことを受け入れて、認め、許し、愛する、という考え方です。
相手にも(妥当性があろうとなかろうと)発言や行動の理由があるわけですが、僕はいい歳してそこに考えが及んでいませんでした。
ダメな考え方はダメ、という理論しかなかったのです。
ここのところのモヤモヤを解消するために僕は色んなものを読みましたが、この考え方は僕にとって救いとなってくれました。
この考え方がなかったことも自分の辛い状況が生まれてしまった一因だと言ってもいいと思います。
これから生きていく上で大切にしたいと強く思っています。