ウンチを踏んだ夜―対話ではないが対話的ではある
「対話」はお互いが「はなしたい」と思っていないと成立しない。「相談」は「相談したい」と思っている人が相談窓口に自らやって来られるのでともかく成立する。ただ、人が「相談する気」になったり、自分が困った状態にあることに「気づいたり」するには、日常的な「他者」との関わり、つまり「対話」が必要だと思う。「いきなり相談」はあり得ない。「何気ないやりとり(対話)」が日常的にある中で「そしたら一度相談してみるか」と人は思う。だからまずは「対話」が何よりも大切だ。
ホームレス状態の方への炊き出しの夜。その人はお弁当を届けても全く反応しない。話しかけても返事もされない。当然「ありがとう」など言われない。聞いているのか、いないのか。全く「対話」が成り立たない状態のまま数年が過ぎた。
その日もお弁当を持って「無反応」のその方を訪ねた。「こんばんは。お弁当持ってきました」。「シーン」。どうにかして「コンタクト」が取りたい。この人はいったい僕のことをどう思っているのだろう。「対話」できずとも何かやりとりができればなあ。そんなことを思いながらその夜もお弁当を届けた。
しかし、今日も反応はなし。いつものように弁当を置いて帰ろうとした、その時。その人が寝ていたのは公園の片隅で昼でも薄暗いその場所は夜ともなると真っ暗闇になる。懐中電灯は持っているが良く見えない。一歩踏み出したその時、僕は足の裏に「ぐにゅ」っと大変嫌な感触を覚えた。「ええええ、これはヤバいやつや」。直感した。「あれや」と。恐る恐る靴の下を見るとまことに残念ながら予感は的中。立派な「犬のウンチ」が足の下にあった。(多分犬だと思うが、もしかして親父さんの・・・あああ考えない方がいい)
僕は思わず「ああああウンチ踏んだ!」と叫んだ。その瞬間、あれほど僕を無視し続けていた親父さんが「フっ」と声を漏らした。笑ったのか、同情したのか、あるいは「バカだな」と思われたのか。それはわからない。だが彼は確かに「ウンチ踏んだ!」に「フっ」と反応したのだ。「あああ、この人は僕のことを見ていたんだ。僕はちゃんと認識されていたんだ」と思えた。「対話」は成立していない。だが「対話的」なことがそこにはあった。どんな形であれ「つながって」いたのだ。僕はなんとも言えない喜びに包まれウンチに「ありがとう」と言いたくなった。(言わなかったが・・・。)
「対話」は大切だが、それを「ことばのやり取り」に限定して考えると少々重い。「ことば」は「近代的」であり「理性」や「知性」が問われる。だが「ことば」にならずとも「つながっている」ことはある。「対話」は成立しなくても「対話的な関係」は成立する。「対話」と「対話的」は違う。「対話」は実際に「ことば」をやり取りすることだが「対話的」は「ことば」を介さずとも成り立つ。つまり「非言語的(ノンバーバル)」であれ、実際「つながっている」ということはあるのだ。あの日、ウンチを踏んだあの瞬間に「つながっていた」ことが判明したように。
「つながれない」。「つながっていない」。そんな風に思わざるを得ない時がある。拒否されることだってある。だが、それでも「つながっている」こともある。案外向こうはこっちのことをちゃんと見ていたりする。だから早々にあきらめることはできない。
だから通い続ける。そうしている内に「ウンチの日」がやってくる。そんな「事件」をきっかけに「対話的」な関係がすでに存在していたことが判ったりする。そして、いつか「対話」つながることもある。ウンチも踏んでみるものだ。「よし今度からはウンチを踏みまくってやろう!」とは思わないが思いがけないことが「つながり」を示してくれたりする。それを信じて通い続ける。
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