ダニエル・ヘラー=ローゼン 「エコラリアス 言語の忘却について」
生後何ヶ月くらいだろうか。子供を抱きながら顔を覗き込んでいた。
すると、突如、赤ん坊がそのちいさな唇で、何かしようとしていることに気がついた。
唇をゆっくりと、そしてぐーっと高く突き出し、次の瞬間、「u---」という音を発したのだ。
その「u---」は、それまでの音とは明らかに違い、雑音の混ざらない聞き馴染みのある響きだったので、まっすぐにわたしに届いた。
子供はその頃、いわゆる喃語といわれる言語ではない音を、日常的にいろいろと発していたのだが、その時は特別な瞬間だった。
おそるおそる動き始めた唇は、それまでじっと聞いていたのであろう音を、「さあ出すぞ」といった、小さな赤ん坊の意志と勇気の結晶のような気がした。
強い意識の煌めきのようなものが、音となって外界へ現れた美しい瞬間だった。
実際には、そこに意志なんてものはまだなかったのかもしれない。だけど、小さな命が、独りっきりでその生を歩んでいる、そんなふうに感じ、何かひりひりとした気持ちになったのだ。
これまでの人生の中で最も美しかった出来事を問われたら、恐らくこの瞬間なのかもしれない。
たどたどしく尖らせた小さな唇を、今でも思い出すことができる。
そしてなんとなく誇らしげで、どこか恥ずかしげな眼差しも。
『エコラリアス 言語の忘却について』という本を読み、この記憶が蘇る。
そして、わたしが美しい瞬間として記憶したこのことは、赤ん坊の変化の過程で起きていたことの一側面でしかなかったことを知る。
あの時発した「u---」という音が、わたしにまっすぐに届いたのは、子供が母親の話す言葉を生きていく言語として選択した、ということ。
そして、言語を獲得していくとは、同時に膨大な音を忘却していくということであり、無数の音を失うという代価をはらっているのだ。
選ばれたものと引き換えに忘れ去れたものはどこへいってしまうのか。
それは記憶にも似ているなと思う。
記憶が意識の元に引き寄せられた時、その周辺には、膨大な忘れ去れたものの気配が漂っている。
夜中、ふと聞き馴染みのない声に起こされ、耳をじっと澄ます。
薄暗い森深く、生きるものの声。
遠い昔に無くしてしまった音が、わたしの中で微かに響いたような気がした。