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自分らしさって何?人の目を気にせず、本当の自分をさらけ出す挑戦
譲れないものは何か、を考える
所属しているコミュニティの課題で、「これだけは譲れないものは何か」というテーマが出された。
その問いを前に、しばらく考え込むことになった。自分にとって何が本当に大切なのか、子育てや仕事に追われる日々の中で、改めて立ち止まって自分自身と向き合うきっかけとなった。
「人から羨望されたい」という気持ちが浮かび上がった。
具体的には、「美しいね」と言われたい。「金持ちだと思われたい」。さらには「子宝に恵まれて幸せそう」と見られたい。そして、「正社員として働いていてすごい」と思われたい。
すべてに共通するのは、自分の欲望ではなく、「人にどう思われたいか」という視点だった。この考えに向き合う中で、自分の本来の姿とは何なのだろうと疑問が湧き上がってきた。
他人の目線を気にするのではなく、ただ自分の本音に向き合ったとき、何を思い、何を譲れないと感じるのか。その問いを胸に抱えながら、本当の自分らしさを探していきたいと思った。
自己肯定感の高さと隠れたジレンマ
昨年受講した魅力覚醒講座で、自分の自己肯定感が実は高いことに改めて気づかされた。
小さい頃を振り返ると、勉強や運動、音楽など、どの分野でも周りに認められる場面が多かった気がする。
また、「お父さんは医者なのかと思ってた」と言われることも多く、裕福に見られていることにどこか誇らしさを感じていた。また、自慢しない性格や人に物事を教えるのが上手だとよく褒められていた。
それらの経験が、自然と自分の中で「自分には価値がある」という感覚を育ててくれたのだと思う。
でも、そんなふうに自己肯定感が高い一方で、小さい頃から「目立つことは恥ずかしいこと」「女は一歩下がって控えめに」という思い込みが、どこか心の奥に根付いていた。
その影響で、たとえば小学生の時、毎年学級委員に推薦されていたが、決して自分から立候補することはなかった。自ら手を挙げることに気恥ずかしさを感じ、「前に出たい」という気持ちを知られることが怖かったのだ。
唯一の挫折、ピアノ
そんな私にも挫折の経験がある。
それは、人生で最も多くの時間を注いできた「ピアノ」。
音楽高校、芸術大学と進み、ピアノを専門的に学んだものの、結果的に残ったのは劣等感だけだった。大学卒業を機にピアノを弾くことをやめた時、その重い扉を閉じるような感覚があった。
竪琴への想い、その裏側にあるもの
最近になって、竪琴を人に聴いてもらいたいという気持ちが芽生えてきている。ピアノの世界では周りの才能ある人たちに全く歯が立たなかったけれど、竪琴というマイナーな楽器なら、自分の演奏でも「すごい」と言ってもらえるかもしれない――そんな気持ちも、どこかにあるのかもしれない。
積み上げてきた資本とは
「自分が積み上げてきた資本は何だろう?」と考えた時、どう考えてもそれはピアノだった。ピアノを通じて培った技術や経験は、私自身の軸であり、他の何かに応用できる可能性があると感じた。
だからこそ、その資本を活かせる竪琴に興味を持ったのだと思う。
自分が積み上げてきたものが音楽だからといって、目の前にある竪琴を選ぶのは安直かもしれない。でも、竪琴を通じて自分の音楽を表現する新しい可能性を探りながら、少しずつ前に進んでみようと思っている。
自分らしさを取り戻すために
魅力覚醒講座を経て、「自分から前に出ることは恥ずかしい」という考えは、手放していいのだと思えるようになった。自分の欲求や気持ちを素直に表現することが、結局は自分らしさにつながるのだから。
最近では本業の仕事でも「人前で演奏がしたい」と希望を口にできるようになり、過去に抱えていたためらいが徐々に薄れている。でも、本音を口に出せるかどうかは、まだ相手による部分も大きい。
自分の本音や欲求をもっと素直に認めること、つまり、人に羨望されたいという気持ちを、隠さずに前面に出していくことが、自分らしさを取り戻すための鍵なのかもしれない。
匿名のnoteだけでなく、日常の中でも自然にこの本音を出せるようになる日は来るのだろうか?
その実現に向けて、過去の思い込みを少しずつ手放していきたい。