3年前のフェイスブック投稿より…写真の記事について
3年経つけど…改めて、より声を大にして言いたい…そんなコロナ禍真っ只中の昨今である。
当時の投稿文
↓
『ツイッター(朝日新聞への投稿記事)より。
多くの好意的意見の中にあって、やはり
「・・・人の金で大学行かせてもらって、返せる自信が無いとか今時だね・・・」
とか
「・・・借金が嫌ならばひとまず働き資金を貯めてから進学すると言う選択肢を選べばよかった・・・」
といった〝自己責任論〟的意見も散見されるわけで・・・
これらの批判は、お金を借りずとも学べる者と借りないと学べない者、両者のスタートラインが違うというアンフェアな前提条件を無視しているし、そもそも記事の彼女が「奨学金」という名の学資ローンを借りざるを得なかった事情は、彼女=「自己」の責任ですらない。
また本来、学校教育とは、一定の水準までは親兄弟であれ社会一般の慈善であれ、そして(先進国たる教育水準に鑑み、義務教育を越えて)国や自治体の「公」が最低限の助成を担う責任を有する点において〝人の金で〟教授されて然るべきものであり、「人の金で大学行かせてもらって、」その金を返す義理など(少なくとも社会一般に対しては)無いのである(なぜなら彼等は学びに要した金より遥かに大きな価値、そして明日の世代を生み出すのだから)。
さらに・・・「ひとまず働き資金を貯めてから進学」とあるが、「時間」とりわけ彼等の年頃のそれは、お金に換えがたい、お金以上の〝価値〟であり、それを失いかねない選択は、結果的にお金が手に入るにせよ、憲法にも謳われる「文化的な生活」の欠如=経済的事情以前の結婚難(→記事で案じていることと同じく少子化へ)に苛まれるリスクや、生産的社会活動(政治・経済・文化)における創造的なポテンシャルの源となるべき〝モラトリアム〟の機会を逸することにつながるわけで・・・。
結局、〝自己責任論〟的見解で物事を評することは、極めて近視眼的で二元論の損得感情に終始する。「お金」そのものが〝財〟、「お金を持つこと」そのものが〝富〟であり、持てる者と持たざる者の二者間においての「価値」観でしかその存在意義を見出さない。
人が教養を得て文化的に育ち、新たに人が生まれる・・・まずはそのために社会全体でお金を回すこと、それにより持続可能性をもって人が作り出すモノやサービスこそが社会における〝財〟であり、それら〝財〟の社会としての共有(人から人へ循環すること)が〝富〟である、と考えれば、基本中の基本として、遍く生産的社会活動に臨もうとする次世代に対して望むだけの学校教育を施すことにこそ、何より社会的に価値があると誰もが認識することは自明であろう。』