イツカ キミハ イッタep.98
「待っているから」
彼女はそう言うと、その先の言葉を聞くつもりはないとばかりに、すぐ受話器を下ろした。
ガチャンではなく、カタッと耳にやさしい音がした。見ると、手元まで伸びたコードがクルクルと丸まり、電話機の脇に静かに戻されたところだった。
彼女はそっと、その黒くて重厚な置き物と化した電話機本体の上に、薄いクリーム色の布を元のとおりに掛けた。布の四隅には、カーテンのタッセルのような金色の留め具が付いていて、重々しい黒の気配を消し去った。
整った部屋の、静かな窓辺に置かれた電話機を暫し見つめてから、彼女はオフホワイトのパーカーを羽織って、玄関へと向かった。
薄らと西陽が差し込んできた午後のことだった。出窓に飾られたポトスの葉の白い部分が光り輝いて見えていたのを、よく覚えている。
*
誰かを待つ、ということを最近経験していないな、とふと思った。
携帯・スマホで、SNSを通じいつでもどこでも繋がれるからだろうか。
それとも、タイパ重視の時代、待つこと自体が無駄だからであろうか。
小学校の春休みに、近所の友達の家に遊びに行ったときのこと。高校生のお姉さんがいるという友達の家は自営業で、よく仲の良い友達を招いて夕食を出してくれた。
私たちはリビングで漫画を読んで過ごしていたように思う。
昼間は両親はおらず、お姉さんには子ども部屋があったが、友達にはまだ部屋が与えられていなかった。
電話も、玄関のチャイムも、お姉さんが出ることになっていて、私たち子どもは応じてはいけないことになっていた。
だから、その日もリビングで急にけたたましい呼出音が鳴ったときさえ、私たちはお姉さんの部屋をチラッと見ただけで、漫画に熱中していた。
5回目のコールあたりで、ようやく部屋からお姉さんが出てきた。昔の黒電話は、同じフロアならばどこにいても必ず聞こえるほどの大音量で響いたから、彼女としてはあまり電話に出たくはない事情があったのかもしれない。
ようやく電話が鳴り止んで、私たちはホッとしてお互いの顔を見た。それから、受話器を取ったお姉さんの方にそっと体の向きを変えて見た。
いつも声の通るお姉さんにしては、くぐもった声で話していたため、よく聞き取れなかったが、言葉遣いから大人とではなく、友人知人と話しているような雰囲気だった。
暫くの沈黙があって、はっきりと、力強く発せられた言葉が
「待っているから」
だった。
夕飯の時間になっても、お姉さんは帰って来なかった。せっかくお姉ちゃんも好きなちらし寿司なのに、どうしたんだろうね?と友達は心配していたが、両親は心配していたというより、勝手に出掛けていったことについて怒っていた。
翌日、友達がうちに遊びに来たので、お姉さんはどうしたのか、と尋ねると、どうやら夜遅くまで誰か人を待っていたみたいだけど、結局会えなかったみたいで、帰宅後、ご飯も食べずにすぐ部屋に入ってしまって、母曰くお風呂の中で泣いていたようだよ、と小声で教えてくれた。
「カレシにフラれたんじゃないの?」
友達はさもありなんとばかりのどや顔をして、唇を尖らして言った。
「カレシ」という言葉を使う友達が、なんだか少しおとなびて見えて、私からはそれ以上、なにも聞くことも言うこともなく、その話題を終えた。
*
大人になってから、自分も人を待つことを経験して思うことがある。
待つことによって、人として成長したよな…
待っている間は、不安で孤独で、どうしようもない妄想ばかりが頭を占めるけれど、会えたときの喜びや、会えなかったときの失望によって、愛しさや虚しさをめいいっぱい体に刻み込んだ。
どちらに転ぶかわからない、心揺さぶられる経験というのは、待つことによってもたらせられるものだ。
こんな発想は『昭和』なんだろうか。
いや、令和の今だって、
待てなくなった現代だからこそ、
待つことによる感情の昂ぶりを経験するのは
意味のあることなんじゃないか、と思う。
「待っているから」
その語尾の強さは、その人を強くさせる。
待つことを信じる、待ち続ける自分への、
エールでもあったのだと、
歳を経て思う春である。
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