イツカ キミハ イッタep.93
冬の時期、電車で移動する際には、僅かな時間でもやわらかな陽ざしが降り注ぐ窓際に座る。黒髪に日光があたり、徐々に頭のてっぺんが熱を帯びてくると、じんわりと全身まで温んでくるからだ。
寒さからあまり出歩かないでいると、太陽光線を浴びることで体内で生成されるビタミンDが不足する、という切実な理由もある。年齢を重ねると、行動の一つひとつに、多くの効果を求めがちだ。
2月9日も、山手線車内の西陽が差し込む窓を背にした席に腰掛けて、読みかけの文庫本を開いていた。
渋谷駅から乗ってきた女子学生二人が私の目の前に立ったとき、チラリと彼女たちの出で立ちを見た程度で、すぐに本に視線を落とした。
服装が若者にしては、品があるというか、全体的にお金がかかっているように見えた。持っていたバックが、某有名ブランドだったからそのように見えたのかもしれない。二人とも似たような顔で、似た服装で、同じ白いA4ほどの封筒を手にしていた。
聞くつもりは無かったが、二人の会話から私立大学の2年生で大学のキャリアセンターが主催する就職セミナーのようなものに参加した帰りであることがわかった。
そう理解できたのも、明るい栗色をした髪に緩いカールをかけた彼女がこんなことを話していたからだ。
「もう自己分析とかわかんなくなっちゃった。企業の採用面談の人に、どんなことを言う学生なら採用したいと思うのか、訊きたいよね」
うんうんと深く頷きながら、その隣に立つミディアムレイヤーの彼女が、自身の跳ねた毛先をもてあそびながらこう返した。
「でもさ、そんな深刻になることないよ。だって、私たちの大学、就職引く手あまただって言ってたし。選り好みしなけりゃ、どこか入れるよ。ほんと附属を受験させてくれた親には感謝だわ」
ほぅ、有名校の附属高校からそのまま大学へ進んだのね、と一人合点して会話の続きを待った。
「いや、それマジで」
栗色カール女子の方が、少し真剣な面持ちで身体をミディアムレイヤー女子の方に向けて小声で言った。
「私たちに、幾らかかっていると思う?小学校から大学まで、数千万って意味わかんない。たった一人の子どもにそんだけ学費、フツー費やせなくない?私たちはさ、親ガチャで当たりだったから、かなり恵まれてるんだよ」
「そだね、うちなんてお兄ちゃん二人も同じように入学して、今、院だから…ヤバ、億かも」
「子どもの教育だけに、億とか重いね。ソレ」
「私、子どもにそんなお金かけたくないわ〜」
「なにそれ、自分はかけてもらっといて」
アハハハ
二人の会話はそれからチョコレートの話に移った。
私は華やかな二人の笑い声を聴きながら目を瞑り、今朝見たニュースを思い返していた。
子どものときに両親が離婚し、大学進学できるお金が無かったけれど、今、頑張って働きながら夜間大学に通っているという女性へのインタビューシーンだ。
私は朝食を一時中断するほど、画面の中で泣きながら話す彼女の悲痛な叫びに衝撃を受けた。
「インターンシップの面談で、隣の女性とあまりにも育ってきた環境が違うので、恥ずかしくて、妬ましくて、本当に悲しかったんです」
隣の女性は、学生時代に海外でボランティアをした経験を話していたのだと言う。
私は、たぶん人生で初めて「妬ましい」という言葉を印字された文字以外で、耳にした。
そして、言葉にするだけでも躊躇してしまうその響きを、泣きながらハッキリと声に出して言わせてしまうほどの屈辱を彼女が味わったことを知った。
私も「妬ましい」と思う感情を抱いたことはあったのではないかと振り返る。
しかし、私の感情はせいぜい「羨ましい」止まりだったと認めざるを得ない。
どちらも嫉妬であるのには変わりないが、「妬ましい」と声に出す勇気は、私には無かった。
彼女から親ガチャという発言も無かった。
ただただ、社会の弱い立場の人を支える仕事に就きたいと望んでいた。
希望する会社に、入って欲しい。
人の痛みを知っているからこそ、社会的弱者を支えられるはずだ。
そう願わずにはいられなかった。
…気がつくと、文庫本は閉じられ、その両膝には固く握った拳が置かれていた。
確率論から考えてみれば、今、目の前で高級チョコレートはどこのが良いかと話している女子学生らの方が、希望する企業にすんなりと入れることだろう。
しかし。
一方で、「妬ましい」という感情に突き動かされて、夢を実現しようと努力を重ねることで、いつか、その道に辿り着けたならば、その喜びは、目の前の女子学生らには一生味わえない感動をもたらすだろう。
人生は長い。
きっと、どこかで見てくれている人がいるよ。
テレビの中の彼女を思い出しながら心の中で呟く。
山手線を降りると、ホームの屋根の切れ間から、幾分高度を下げた太陽が覗いていた。
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