インテリの山荘(軽井沢3)
昭和58年(1983年)8月だった。私は、その年もまた軽井沢銀座の商店街の通りを歩いていた。
夏は盛りだった。通りは、大勢の観光客でごった返していた。色鮮やかな夏服を着た、若者がその中心だった。
沿道には、若い女性を目当てにしたブティックや旅行客を当て込んだ土産物店が軒を連ねていた。しかし、私や連れの友人は衣料品や小間物には、あまり興味はなかった。それよりも、別荘地帯に広がる緑深い森林に心惹かれた。そこで見る若くてきれいな女性に目が向いた。
毎年、この高原で数日の滞在を終えると、碓井峠を下って帰途に就く。高原の土産として自宅に持ち帰るのは、物の土産ばかりでなく心の土産だった。地元の名産といった物の土産は、持ち帰るとすぐに忘れてしまう。一方、あの時あの場所で見かけたあの魅力的な女性といった心の土産は、大切な思い出としてその後何度か心によみがえる。
しかし、ほとんどの場合、心の土産になるような女性、胸をわくわくさせるほどの魅力的な女性とは、話す機会もなく、具体的な交流はなかった。実際に声をかけて時間を共にした女性たちは、普通の器量の人たちが多かった。
私は友人たちを車に乗せて高原のあちこちを歩いた。
昼食時には、まだ少し早かったが、友人の勧めで中軽井沢駅の駅前の名の知れたそば屋に入ることにした。
混んでいる店内で、何とか席を確保した。
隣の客と肩を寄せあうようにして、注文したそばが出てくるのを待った。
どこかから来た客が、店内の壁を指さして、何か話し合っていた。そこには、どこかで見覚えのある人物の写真が大写しで、何枚も貼ってあった。それらは、人気のある歌手や俳優が、この店に来たことを示す、言わば証拠写真だった。そんな話題に惹かれて、この店を訪ねてくる客が多いようだった。
やっとのことで、そばが運ばれてきて、私たちは割り箸を割いて味見した。
すると、隣にすわる友人Aが「あっ、どうも」と言って、誰かに頭を下げた。
私が顔を向けると、どこかで見たような顔立ちがそこにあった。
その古老の紳士が、相好を崩して近寄ってきた。私たちが卒業した大学で顔見知りのC教授だった。
「あれ、どうしたの? 」
教授は少し、くぐもった声を出した。私は、その声に懐かしさを感じた。
「ああ、どうも」
少し照れながら、私は友人Aとともに頭を下げた。親しい付き合いはなかったが、かつての恩師に出会うと、少しへりくだる気持ちが働く。
「ちょっと観光で来ているんです」
友人Aが答えた。
「そう…、女房を送り出すところなんだけど…」
教授は、混んでいる店内で他の客が通るのを避けて、身を引いた。
「じゃあ、外に出てから…」
「はあ、そうですね」
友人Aが応じた。
私は、心の中で、挨拶だけで済ませたいと考えていた。恩師とはいえ、古老の男と時間を共にするより、避暑地に集まってきている若い女性でも眺めていた方が良い。機会があれば、知り合いになり交流する。そう腹の中で考えていた。
しかし、教授の方は、久しぶりに顔見知りの若者たちに会えて、じっくりと話でもしたい様子だった。
私は、良くない予感を覚えながら、そばを食べ終えた。
教授は、夫人とともに店の外で待っていた。私たちが夫人の方に頭を下げると、夫人も品の良い微笑みを見せた。
あとから友人Aに聞いた話では、教授は離婚し、そのあとそのヴァイオリニストと再婚したらしい。
「じゃあ、女房が今日、帰るんで……」
教授は駅の方に歩き出した。私たちも夫婦のあとに従った。
電車が行ってしまうと、教授は駅舎から出てきた。この頃の軽井沢駅は小さくて、こじんまりした山間部の駅舎のたたずまいだった。
広場で待っていた私たちに、教授は改めてにっこりと微笑んだ。気兼ねする相手がいなくなり、目の前には気の置けない教え子たちがいて、くつろいだような顔つきをしていた。
「今日、これからどうするの? 」
友人Aは困った顔で、連れの私と友人Bの顔色を見た。
「特に予定はないんですが……」
「ああ、そう。それじゃあ、僕の山荘に来たら? 」
「ええ、いやあ」
「もし迷惑でなかったら……」
「はあ」
私たちは、教授に引きずられる恰好で歩き出した。
「じゃあ、行こうか? 」
私の車の助手席に、教授は無遠慮にすわりこんだ。
「ちょっと夕食の材料でも買っていこうか? 」
私たちは、駅のそばの新しくできたスーパーマーケットに入った。教授は慣れた様子でプラスチックのかごを採り上げた。すたすたと食料品売り場の方へ歩いて行った。
私は瞬きしながら、仲間たちの後に従って店内を歩き回った。
買い物を済ませた教授は車中で、私たちがペンションに泊まっているという話に興味を示した。
「ペンションていうのは、どういうところなんだい? 見たことないんだ。ちょっと見せてもらっていいかな?」
教授は、老いても好奇心は旺盛なようだった。
ペンションの前まで車で運ぶと、教授は建物の中を覗いた。私たちの泊まっていたペンションは、軽井沢の有名なテニスコートのすぐそばにあった。そのテニスコートは皇室の恋愛に関する話題で取りざたされることが多かった。
ペンションは低料金で、部屋の中にはエキストラベッドを含めて、ベッドが3つあるだけだった。全体に殺風景で、廊下の奥に洗濯室があり、宿泊者は自分で洗濯できる。しかし、若者を中心に、出入りする利用者の数は多い。
友人Bはそのうち、用事があるから先に帰ると言い出して、私たちは彼を駅まで送り、そこで降ろした。Bは、私と同じ気持ちのようだった。特に用事があるようではなかった。ただ私ほど我慢づよくはない。彼は好みでない人と好みでない時間を過ごすことは好まない性格だった
ペンションから教授の山荘に向けて、しばらく走った。
教授は、おもむろに言った。
「僕は車の運転は、やらないんでね。バスだと不便で……」
不便というだけあって、教授の山荘は山奥にあった。軽井沢では有名な離れ山という名の、お椀をかぶせたような小山の中腹にあった。
山林地帯に入ってから、勾配のある砂利道を何度も曲がった。これといった標識も目印もなく、帰り道に困りそうだった。やっとたどり着いた。
山荘に入った。
教授は狭い部屋の中を案内した。窓からはうっそうとした林が見える。
書斎の机の上には、文芸雑誌が置かれていた。ロラン・バルトという構造主義の思想家が特集されていた。私は、教授はその分野では有名な外国の思想家に正面から取り組んでいる人なのだなと思った。
私がうわさで知っていた教授の経歴が、のちに関係書にまとめられたようだ。
太平洋戦争中に日本の詩をめぐるある運動に参加していた。ジャン・ポール・サルトルなどの実存主義の翻訳に携わった。性的表現の露骨なフランスの小説が翻訳されたときには、人間の自由を擁護する立場に立ったのか、その裁判に関与したこともあったらしい。
そう言えば、大学で、この教授の脱構築という思想のジャック・デリダの講義をとったことがある。
この教授は、履修の単位を学生に比較的容易に与える方だった。そこで、文学部の女子学生を中心に最初の講義に多数の聴講生が詰めかけた。
面食らった教授は、聴講生の数を絞り込もうと考えた。自分が関心を寄せているデリダの思想の高尚さを挙げた。それでもこの講義を受けたいと思う学生は、これから示す教室に移動してくれと提案した。
教授にとっては残念なことに、学生の数は減らなかった。
当時、教授のひとりが言っていたのを聞いたことがある。大学教授には教師であろうとする者と研究者であろうとする者がいる。自分はまず教師でありたいと。
自分の好きな学問研究に熱心で,学生の面倒をそっちのけにするような教員にはなりたくないという主張だったようだ。
このC教授の姿勢は、私には研究優先に見えた。しかし、人柄に不快感は覚えなかった。
教授はひじ掛けのついた籐椅子に座った。別荘の周りは森に囲まれ、闇に包まれ、ほとんど物音はしない。
思いつくままに世間話をした。
そのうち、隣人がやってきた。斜面のひとつ上にある山荘に、有名大学のフランス文学の教授が、その妻とともに住んでいた。いわゆるC教授の同業者らしい。私たちは、教え子だと紹介された。
隣人は、聞くと、タヌキをえづけしているという。山深い土地では、野生動物が身近に見られるようだ。
隣人が去ると、教授は、今住んでいる南関東の町の繁華街で3本立ての官能映画を見たと言った。私たちと一緒に飲む酒も進んできた。
ある女優の演技が気に入ったようで、盛んにほめた。
「普段は真面目な映画に出ているようだけど、ベッドの上で、実に色気があるんだよ」
そのうち、男女の話に話題が向かった。
「僕の友人は、見合い結婚だったんだが、奥さんと折り合いが良くなかったんだ。重い病気になってね、最期の時を迎えて、病室に僕らは呼んだのに、妻を入れなかったんだ」
教授は間を置いた。
「だから、君たちは、色々あるかもしれないけど、大好きな女と結婚しろ。人生1回きりだから……」
「先生、タバコは良く吸われるんですか? 」
友人が聞いた。
教授は紙巻きたばこの煙をくゆらしながら、にこりとして言った。
「僕は医者に言われたんだよ。タバコは体に良くないが、あなたは、今、長年吸ってきたタバコを止めたら、かえって体によくないから、やめないでくださいってね」
「この間、ジュリア・クリステヴァが日本に来てね。僕は会ったんだよ」
「そうですか? どうでしたか? すごい人なんですか? 」
「ああ、結構、いい女だったよ」
私と友人Aは笑った。その世界では、当時注目を集めていたポスト構造主義という思想に関連したフランスの思想家だった。教授はその女性の思想ではなく、人となりをあっさりと話した。それをまるで、街で見かけて外見が目を引いた女性のように形容するところが、私たちの笑いを誘った。
同級生のひとりの話題が出た。
「彼は、今度は試験に受かるだろう」
その同級生は、フランス政府が費用を給付する留学生試験に一度落ちていた。頭脳優秀でなければ、その試験には合格しない。教授も、私たちも、その同級生の学問的能力や知識は認めていた。本人も、将来は大学教授の道を歩いていくつもりのようだった。
ところで、同級生は高校生のころから、フランス文学の有名な教授に関心を示していた。そこで、学生仲間に、この目の前のC教授についての逸話をいつか語ったことがあった。
同級生は、都内の有名な繁華街のスクランブル交差点のそばの雑踏の中で、教授に会った。教授には、一度面識があった。教授はその時、自分の小さな子供の手を引いていた。
どんなやり取りがあったのか、同級生は言った。
「50円玉を握りしめていたよ。あの頃、最悪の時だったと思うよ」
どうやらそれは、離婚直後で、教授は精神的も生活的にも辛い時期だったらしかった。
「60歳を過ぎて初めて洋行して、フランスの地を初めて踏んだ。そういう年齢で、そういう年代を生きてきた世代だからさ。今の留学生とは違うよ」
そう言っていた同級生は、やがて飛行機で軽々とフランスに出かけた。
教授の息子は都内の一流ホテルに勤務しているらしかった。
「娘の結婚式は、その関係で安く挙げることができたよ」
そう言って教授は、薄ら笑いをした。
私は軽井沢までの片道4時間と、当地での移動で運転疲れをしていた。そこで、先に横にならせてもらうことにした。
それで夜のフランス文学の子弟の対談は、友人Aと教授の1対1になった
私は、寝ぼけ眼で友人の声を聞いた。
「僕は○○さんと付き合っていて、結婚したいと思っているんです」
友人が口にしたのは、大学の女性の同級生の名前だった。
私は、彼らの交際については聞いて知っていた。教授は、「そうか」と頷いて、黙って友人の告白を聞いている様子だった。
しかし、その女性の父親はどこかの大学の教授だった。一方、友人は就職の当てのない文学部の学生で、現在留年している身の上だった。教授の勧めるように、大好きな女と結ばれるか、その頃は誰もわからなかった。
しばらく私が畳の上で寝そべっていると、私の名を呼ぶ声がした。
目を開くと、友人と教授の顔が上にあった。
友人は言った。
「先生が、これから軽井沢銀座に行こうっていうんだけど、大丈夫かな? 」
教授が続いて言った。
「軽井沢銀座に女の子、引っかけに行こう」
私は寝ぼけ眼で、苦笑いした。
「はあ、ああ、そうですねえ」
そのうち、私が疲れているのを見て,思いついた夜の悪だくみをあきらめたようだった。
私は後で思った。確かに、夏の軽井沢の繁華街は、夜になっても若者であふれている。若くて、きれいな、かわいい女性も大勢来ている。ナンパの首謀者は、酒の勢いに押された教授らしかった。元気で健康そうに見えるのはいいが、若い女性を狙って、どこまで成功するか、期待はできない。この老人は、皴も寄って、白髪だが、まだまだ色気があるんだなと思った。
翌朝、教授は私と友人を山荘の入り口で、薄ら笑いを浮かべた、人の好い表情で送り出した。
その後社会人になって、学芸の世界から遠ざかった私は、あの高原の山荘のことを、夢を見るような気持ちで、時々思い出す。