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ツバメの来る日 第8章 女性たちの結婚

(前章までのあらすじ ~ 青木は後輩の清水が妹と一緒にいるところに出くわす。秋山と語り合い、万里に連絡することを思いつく。清水が交通事故を起こし、自分も同乗者も死亡したことを知る。清水の葬儀に向かう敬子から、妹と紹介され女性は同棲していた恋人と知る。相談所のパーティーに参加して、洋館で2人の美人に出会って、交際を希望するが断られる。
青木は万里と10年ぶりに電話で話し、奇跡だと感じる。万里は独身でフランス語を使いスタイリストの仕事をしていた。青木は万里との昔をしみじみと追想し、再会を夢見る。)

入梅の季節になって、驚くべきことが起こった。
 青木が帰宅すると、時々部屋の掃除に来る母親の置き手紙が、机の上にあった。青木は、母親が由美に、息子のことをできれば考え直して欲しいと書いた手紙を送ったことを知った。
 青木は信じられない気持ちだった。母親の行動が常軌を逸しており、狂気の沙汰に思えた。一度も面識のない若い娘に、個人的な用件を唐突に頼み込む年配の女性がそこにいた。息子を思う母親の気持ちの強さと深さは理解できたが、個人の恋愛感情の中に、前触れもなく土足で入ってこられたような不快感があり、ひどく迷惑に思った。
 青木は早速、母親に電話して文句を言い、不平を並べ立てた。
 母親がそんな風にあれこれと息子を急かせるから、自分はこれまで苦しんできた。そのせいで、結局は失敗もしたのかも知れないという怒りが、心のどこかにあった。もっと落ち着いた目で、息子の恋愛や結婚を見守っていて欲しいと内心で望んでいた。
 母親の唐突な申し入れを詫びようと由美の家に電話を入れると、由美は留守だった。長い間電話をかけることを忍耐してきたが、予期しない形でその幸運な機会を得たことだけは確かだった。
 数日後、由美と電話で話すことができた。実に半年ぶりだった。恥ずかしく感じながら、母親が迷惑をかけたことを謝った。
「もう返事はもらっているんだから、いいんだって言ったんだけど」
「お母さんのこと、あまり責めないでください」
 腹を立てている青木に、由美は慎ましい一面を見せ、母親が息子を深く思う気持ちを気づかっていた。
 由美はやはり今でも、彼氏のことが好きで、付き合っているらしかった。
 由美は、最近の気になる出来事を口にした。
「ゴールデン・ウイークに東北の方に旅行したんですけど、そこから戻ったら、花束が自宅の玄関先に届いていたんですが……、青木さんじゃないですよね?」
 青木には、身に覚えがなかった。
「いやあ、それは僕じゃないですね。だって、もう返事はもらってるから、これ以上そういうことはできないし……。誰か他の人ですね」
「そうですか」
「持てる人は大変ですね」
 青木は皮肉を言いながら、それは由美との関係をもう諦めてしまった気持ちの余裕が言わせるのかもしれないと思い、寂しさを感じた。
 由美は以前の勤め先で、またアルバイトで勤めているらしかった。
「実は、真珠のブローチをプレゼントしようと思っていたんですけど、とうとう渡す機会がなかったんで、郵便で送りますよ」
「そんな、申し訳ないですから」
「いいですよ、どうせ男の僕が持っていても仕方ないですから。もう特別な意味はないですから……。あとは時間が解決してくれると思ってますから……」
 電話を切りしなに、青木は笑いながら打ち明けた。
「この前に断られたときに、実は1週間くらい泣いていたんです」
 由美は同情したのか、声を落とした。
「時々、電話ください」
「ああ、でも、電話しても、話すことはないですからね」
青木は、そう言う自分の声が相手に冷たく聞こえたような気がした。
しかし、電話を切ってから、青木は怒りを感じた。これだけ自分に気を持たせておいて、今さら、また電話をくれなどと、よく言えたものだ。もう何度も電話して、居留守を使われて不愉快な思いをしている。そんないい加減な人間とこれ以上関わりを持つ気はない。
 
 青木はある日、鏡をのぞき込みながら、頭の白髪が増えてきたのに気づいた。最近感じる年齢相応の体力の衰えを思い返した。時々、ひとりでいるのがつらくて寂しくて、将来に漠然とした不安を感じた。自分は恋に悩みながら、実を結ばない恋を繰り返して年をとっていく。なかなか結婚が決まらないのは、相手を選んでいることも大きな原因と考えていたが、実はそもそもが、結婚相手に恵まれず、10年でも20年でも未婚のままなのではないか。
 青木はまた東京に出かけて、友人とテーマパークで遊び、風俗営業の店で若いきれいなホステスとアルコールを飲み、憂さ晴らしをして楽しんだ。
 
 青木はしばらくおいて、由美にまた電話した。
「英美ちゃんが、同じ職場の人と結婚することになったんです。それで、私にアルバイトの後任にどうかっていう話が、今来てるんです」
 青木は、由美がまた、職場の自分のそばに戻ってきても、自分の悩みは変わらないと思った。
 由美との出会いと別れの出来事は、心の中で整理できないままに風化していくのかもしれない。時々、心の中で、由美がこれまでに見せた、青木に気を持たせる結果になった言動のあれこれを思い出して、不愉快になった。
 
清水の事故のその後の経過が、時々、青木の耳に入ってきた。
福祉課の課長は、事故処理に追われ、頭を抱える日々が続いた。ある日、部下と打合せしていた。
「私も何の因果か、とんでもない仕事にめぐり合わせたもんだよね」
 天井を見上げて、黒縁の眼鏡をずらした。
「どうして、私みたいな年寄りでなく、まだまだ若い人たちが先に逝っちゃったのかな」
打合せでは、様々な憶測が出た。
どうして清水は、ハンドルを対向車に向けて切ったのか。自分で切ったのか。実際のところ、車の中で何があったのか、分からなかった。
普通、車を運転している人間は、センターラインを越えることはない。ハンドルを切らないと車はその方向には進まない。進めば、その先には大事故が待っている。世の中の人々は、その危険性と隣り合わせで車を運転している。
 
やがて、課長が胸をなでおろす日が来た。
「やっと話が着いた」
ため息交じりの、その声を、青木は聞いた。
数か月かかって、遺族たちと市の間で、相応の金額が動き、示談が成立した。
 
 秋口になると、ある程度時間が経過したせいか、青木は由美をなんとか諦められそうな気がした。この前に電話で話してから、すでに2ヶ月が経っていた。
 青木は、自分と比べて交際相手の彼氏のどんなところが、由美の気を引くのか知りたいと思った。彼氏は一見したところ、それほどいい男、好青年には思えない。自分が女性だったら、自分と彼氏とどちらを選ぶだろうか。彼氏と自分は、交際相手、結婚相手として、どのような条件が違うのか。彼女は男性のどんなところを好ましいと考えているのか、あるいは感じているのか。
 いずれにせよ、この恋は実らないと諦めて、それは辛いことだが、由美との一切の関係を絶つ方が、気持ちが楽になる。
 それなのにまた、由美は、自分のいる職場のそばに戻ってくるかもしれないなんて、なんと興ざめなことをいう女性か。由美に会っていなかったら、もっと別の女性と楽しい交流ができたのではないか。もっと別の人生があったのではないか。
 
 青木の母親は、珍しく器量の良い女性の見合い話を持ってきた。しかし、ある日、相手は会いたがっていないと伝えてきた。
 母親はそのあとすぐに、別の女性の経歴書を持ってきた。
聞いてみると、青木の知っている男の妹だった。その男は青木と同じくらいの年齢で、以前に同じ職場で働いていた同僚だった。
 デパートに勤めているらしく、母親に勧められて、青木はどんな女性なのか確かめるため、こっそりと見に行った。売り場で遠くから覗くと、その女性は器量も良いわけではなく、表情にはかわいげがなかった。例えば由美とは、まったく比べものにならなかった。
 数日後、母親はまたやってきて、結婚のことで青木と口論したあと、見合い用に青木の写真を撮って帰っていった。青木は気分が面白くなくて、休日によくするように、ゴルフの練習場に行って汗を流した。
 母親はそのうち婦人特有の病気で入院し、緊急に手術することになった。
母親は自分に何度も見合いの話を断られて、悩んでいた母親がかわいそうに思えた。息子の好きな女性に手紙までしたためた母親が、精根尽きて病床に伏したような気がした。母親を満足させ、安心させる行動が取れない自分が情けなく、親不孝に思えた。母親が何とか少しでも早く、息子に結婚を決めて欲しいと望んでいたのは、自分の病状の先行きに不安を感じていたせいかもしれないと想像した。
 その日、そのような周囲の状況に追い立てられるように、由美の家にまた電話した。花咲く見込みのなくなった植物に水をやるような気分だった。時々、電話して欲しいと言った由美の言葉に機械的に従っていた。しかし、由美は留守だった。
 
 その後、再び由美に電話したが、家人には留守だと言われた。話すことなど特になく、自分が質の悪い男のように思われている気配を残念に感じた。
 また電話すると、家人は、由美はかぜで寝てしまったと言った。その素っ気ない回答で、青木はまた思案を巡らせた。もしも風邪を引いたというのが本当なら、誰しも体調の悪いときはあるから、またの機会に譲るのもひとつの態度かもしれない。しかしそれが仮病だとすれば、嘘をついてまで接触を避けなければならない男に、なぜわざわざ、また電話をくれと由美は言ったのか。
 自分の方からは、まだ未練があって、ある時を境に電話するのをやめてしまうようなことはできない。電話だけの自分との希薄な関係を断ち切りたいと望むなら、由美の方から一言断りの言葉を告げて欲しい。青木は由美の心中を不可解に感じ、非難したい気持ちになった。
 それとも、万が一彼氏とのことが破綻したときには、二番煎じとしてこちらに乗り換えようと言う身勝手な計算でもしているのか。その程度の計算あるいは思惑は結婚前の若い娘なら普通のことかもしれない。それとも、自分を忘れられない男に、電話をかけさせてやるくらいの寛大な気持ちは持ち合わせているということなのか。
 
数日後、夜中に青木の自宅の電話が一度鳴り、それで切れた。青木はすぐさま、それに返すように由美のところに電話した。
 今までに、そんな奇妙な、不審な電話は、何度かあった。一度だけのベルで切れるもの、受話器を手にとって耳に当てると切れるもの、「もしもし」と言うと当方の声を確かめるように切れるもの、要するに、呼びかけはするが、会話しようとする意志あるいは勇気はない電話だった。
 青木は、それは由美の仕業ではないかと以前から考えていた。由美は一度青木が尋ねたとき、そのことは否定した。由美だとすれば、色良い返事ができない青木に、どうしてそのようなことをするのか。由美でないとすれば、今まで知り合った女性の誰かなのか。
 由美は今日は、電話口に出た。久しぶりに口をきいた由美は言った。
「今度、結婚することになったんです」
 青木は、開いた口がふさがらなかった。
「相手は、付き合っていた彼氏ですか?」
「そうです」
「彼氏とは友だち程度だって言ってましたよね?」
「その後、進んじゃったんですよ」
 青木は、いつか由美が不審に思っていた玄関先の花束の贈り主は、他でもない彼氏だったのかもしれないと思った。
「いつですか?」
「いつだっていいじゃないですか」
 由美の口から初めて聞く、冷たい強い口調だった。つっけんどんで、語気は荒かった。もうあの人と一緒になることに決めたんですから、あなたは用なしなんですよ、とでも言われたような気がした。もう、うるさくつきまとわないでください、とも言っているようにも感じられた。
それは、いつかの「時々、電話ください」と言った温情のこもった態度とは打って変わった、突っ放した口調だった。
青木は口ごもったが、他の男との結婚によって自分たちがすでに無関係になった以上、由美のいうことは道理にかなっていると思った。青木は、決定的な事実から距離を置いたつもりで、冷静に日取りを聞いたつもりだった。
しかし、由美の態度は、彼氏以外の男がこれ以上自分に関与してくるのを拒んでいるように見えた。悪く言えば、蓮っ葉娘が抑えていた本性をむき出しにしたような印象も受けた。
青木は言葉に出さずに言った。
「元々、自分には、あなたが最初からきちんと断ってくれたら、しつこくするつもりはなかったのに」
 
 電話を切ってから、しばらく呆然としていた。それから、あれこれ興奮しながら考え出した。
英美が結婚して、自分も焦りを感じたのだろうか。あわてて結婚する気になったのか。半年前の春には、まだ結婚する気はないと言っていたのに。
 これですべてが終わった。辛くて苦しい時代が終わった。
 そういう安堵の気持ちに包まれると同時に、一方で、後悔の念と怒りが胸中にわき起こって、自分は由美のおかげで大切な時間を無駄にしてしまったと思った。
 彼氏がいると分かっている由美から、決定的な拒絶の言葉を聞かされることなく、自分の恋心は生殺しにされてきた。最初から断ってくれたら、悩んだり、何度も連絡したりして迷惑をかけたりしないで済んだだろうに……。
それなのに、どっちつかずの由美は、彼氏と自分とどちらがよいか迷っているような素振りをずっと見せていた。由美を思い切ることもできず、由美を獲得する見込みも立たず、自分は時間を浪費した。挙げ句の果てに、その男と結婚されてしまった。
 こんな振られ方は初めてだ。つまらない女に振り回された。由美は思いやりがなくて、けじめがなくて、常識がなくて、愚かな娘だ。先のことは考えれば分かるものを、その場限りで生返事をして済ませてしまう。責任感がなくて、主体性がなくて、昨日言った言葉とまったく違った言葉を口にする、こんな娘に恋したのは初めてだ。
 
 しかし、思い出せばやはり、由美は美しかった。青木は欧米の美女を見るたびに、よく日本人離れした顔立ちの由美の面影を脳裏に蘇らせた。由美は、都会のしゃれた目抜き通りを歩いていても、なかなか見つからないほどの美貌の女性に思えた。地方都市のありふれた若者の妻になってしまうことは意外で、不思議に思えた。
 自分は、由美と相手の男が結びついていく成り行きを、詳細な事情もわからず、ただ呆然と見送るだけの門外漢だった。そのことに思い当たり、無力感を覚えた。
 デートの誘いを断られた昨年の秋に、由美と自分の関係は決まっていた。自分たちは一年半もの間、一度も会うことはなかったし、これからも会うことはほとんどない。心のどこかで、いつかは自分の方になびいてくるかもしれないと望みをつないでいた自分は愚かだった。
 由美は、普通の若い娘がするように、深い関わりを持つ男をひとりに決めざるを得なかった。その男は、途中から名乗りを上げた青木ではなく、面白い人だと感じて以前からつき合っていた彼氏だった。由美は恐らく青木の愛情をうれしく感じたが、それは受け止めるには重すぎて、逃げ出してしまった。人の体はひとつしかない。人生は一度しかない。両天秤にかけることはできず、彼氏を選ばざるを得なかった。彼氏がいなかったら、由美を得ることができたのは自分だったかもしれないと考えると、悔しさがこみ上げてきた。
 かつては好きになった女性に快い返事をもらえなくても、その幸福を影ながら祈ってやることもあった。そのような行為を自分の徳性を高める生き方と考えたこともあった。善良で素直な女性が相手なら、事情が納得できれば、快く身を引くこともできる。
 しかし由美の場合は違っていた。去っていくその背中を、偽善者のような態度で見送りたいとは思わなかった。由美の優柔不断のせいで自分が不幸になったような印象があった。どっちつかずの態度が、結果的に自分の味わう悲しみを増幅させた。
その点で、青木は微かな悪意を感じた。所詮、人間は聖人君子にはなれない。自分の人間としての器の大きさを過信していると、つまるところただの道化師で終わってしまう。貧乏くじばかり引かされてしまう。世間では、痴話げんかのような、こんな動機で起こる犯罪が起こることもあるのかもしれない。
 しかし、青木は言葉にも行動にも、具体的には示さない。その代わり、由美には、由美が青木を不幸にした分だけ不幸になってもらいたい。これまでの経験から、世の中には因果応報の法則が支配しているように思われる。遠からず由美は苦渋をなめることになるだろう。
 
 青木は再び万里に電話した。行きがかり上というより成り行きで、という言った方がいいかもしれない。万里の母親らしい人は、電話口で言った。
「テレビ局の人と会食していて、まだ帰らないんです」
 母親は、青木のことをどこのどういう男なのか気にしている様子だった。30才を過ぎた独身の娘の身の上を心配しているようだった。
 母親は、電話の切りしなに言った。
「ありがとうございました」
この前は、父親は「お世話になっています」と言った。両親とも丁寧で礼儀正しい印象を受けた。そう言えば、それは由美の両親の電話の受け答えの印象とは違っていた。相手の女性の家庭環境が違うのか、青木と女性たちとの人間関係が違うのか、分からなかった。
 
 万里の姉は、一流大学の理工学部を出て公認会計士と結婚し、今、ニューヨークに事務所を出して住んでいると万里の女友達から聞いたことがある。世間の一般的な目から見れば、それなりに立派な姉ということになるかもしれない。
 青木は思った。世の中には、色んな人がいて、色んなことをしている。自分は何をしているかといえば、狭い田舎の小さな役所に平凡に勤めている。しかし、見方を変えれば、立派な公務員生活を送っている。
 
 頃合いを見計らって、また万里に電話した。10時過ぎだったが、万里は帰っていて、丁寧な口調で言った。
「ご無沙汰しております」
「来週、神戸に行くんですけど、もし都合が付いたら、会えませんか?」
青木は聞いた。
「来週のいつですか?」
「月、火、水です」 
「あいにく、今、○○が来ていて、仕事が忙しくて、ちょっと……」
万里は困った風な声で言った。
「F1グランプリに○○は行ったようですね」
と青木は言った。
「自分も○○サーキットに行っていたんです」
と万里は答えた。万里は通訳の役目を担っているらしい。
「私も」と言わずに「自分も」と言ったとき、青木は万里が関西弁の生活の中にいることを感じた。
「土、日は?」
「予定が詰まっているんです。今度、大阪に引っ越すんです」
青木は、やはり、最初から自分と再会するつもりなどなかったのだろうとぼんやりと思った。
「それじゃあ、また機会がありましたら……」
青木はとりあえず、そう言っておいた。
 
久しぶりに会った秋山は青木に言った。
「母親が今、病院に入院していて、もう年だから他界しそうなんだよ」
「いくつになったんだっけ?」
「80越えているからね」
「そうかあ。それは大変だなあ」
 ところが、その2,3日後、世の中は激しく動いているらしい、秋山が慌てた様子で電話してきた。不幸に見舞われたのは、秋山の母親ではなく、よく付き合っている友人だった。
 会って話したいと言われ、また秋山とレストランで会って夜中の12時まで話し込んだ。
「昨日、職場の同僚の進藤が、車にひかれて死んだんだ」
「交通事故か?」
「それが職場の宴会の帰りに、かなり飲んでいたらしくて……、仲間と別れた後、一人で道をふらふら歩いていて、道路の上で寝てしまったらしいんだ」
「夜中か。それは大胆だな。よほど大酒飲みか、気が大きいのか……」
「意識朦朧だったのかな。普段から、気が大きい奴だから……」
 会ったことはないが、青木は、進藤という男のことは、秋山からよく耳にしていた。青木たちと同じ30前後の年令だった。
「だけど、車の方は気がつかなかったの? 気がついてもよさそうだけど。スピード出していたのかな?」
「そこは照明もあまりなくて、夜中は、ちょっと暗いところだったみたいなんだ。ブレーキを踏んだときには間に合わなかったらしいよ」
「そりゃあ、ひどいな」
「もうその知らせを聞いて、びっくりして、まいったよ。奥さんと小さい子供2人、いるんだよ」
 人生には、幸福が逃げ、不幸が襲ってくる場面もあるのかもしれない、と青木は思った。
 翌日の天気は大雪らしかった。青木は、車はやめて電車通勤にしようと思った。
 
また、母親から見合い写真を見せられた。しかし、それは心は動かず、会うのを拒むと、また親と口論してしまう。
青木は思う。親には、自分がどれくらい女性に好かれているか、あるいは好かれていないか、何人の女性を断り、何人の女性から断られてきたか、分かっていない。思い出すさまざまな女性。
そうは言っても、自分はもう33才。正念場か。親も、世間も、自分自身も限界に来ているか。
周囲の人が相次いで亡くなっている。自分も、明日をも知れない命と肝に銘じるべきか。一寸先は闇。できることを今のうちにしておくべきか。
 近頃、本気で思い始めた。愛し合える女性と早く結婚したい。
しかし、一方ではためらいもある。身を固めて生活の形を決めていくのは残念だ。地方公務員、持ち家、地方住まい。妻、子ども、家族。
 職場のバイトのある女性は、この間言った。
「自分に見切りをつけたから結婚したんです」
 しかし、その判断は、自分の場合には当てはまらないかもしれない。
 
 青木はまた、結婚相談所のパーティーに出席した。
会場は、東京湾を周遊する大型クルーザーの中だった。夕刻になって、港の埠頭に、パーティーの参加者が集まってきて、大型客船に乗り込んだ。甲板に出て海風に当たり、波しぶきの音で、非日常的な雰囲気を味わえた。
湾岸の都市の町並みの上空に、大輪の花火がいくつも咲いた。しかし、心に残る素敵な女性はいなかった。同じように感じた会員も多いように感じられた。目の前の風景ほど、自分たちの結婚問題は華やかではなさそうだ。

 青木は、そろそろ35才になろうとしていた。自分は未婚のままで40才を越えてしまうかもしれない、と漠然と思った。
 そんなところに、どこかから紹介されてきた女性の見合い写真を、また親から見せられた。その相手に特に魅力は感じず、勧められても気が進まず、相手と会うのを拒んでいるうちに、また親と口論になった。
 ある時また、人目に付かない夕方の時間帯を見計らって、由美の家の近くを車で回ってきた。
 季節は冬になり、雪の降っている戸外を見つめながら、物思いにふけった。自分は由美を失ったが、由美を得ようとして四苦八苦していた悩みから、今はようやく解放されて、精神が自由になり、爽快感の中にいるのかもしれない。
 
 そのうち、予期しない出来事が起こった。
 青木が会社の廊下を所用で歩いていると、人の出入りの多い部署からある女性が出てきた。目の前を横切ったのは、久しぶりに見る由美だった。
由美も気がついて、青木の方を見た。ふたりは目を合わせて「こんにちは」と言って会釈し合った。由美は、気まずそうに目を伏せた。
由美の腹は、大きく膨れていた。青木には最初、その意味するところがわからなかった。しかしすぐに、由美が着ている地味な色合いのワンピースは妊婦用のものだと気づいた。
 ふたりは歩く方向が一緒だった。まっすぐな廊下で、青木が由美の後に従う形になった。由美は青木を避けて小走りに遠ざかっていった。
 以前に本人の口からそれらしいことは聞いていたが、由美はまた、臨時で青木の近くの職場で働いているらしかった。
 
 青木は、決定的な事実を目の前に突きつけられて衝撃を受け、呆然とした。様々な想念が頭の中を駆けめぐった。結婚した由美は夫と夫婦関係を結び、妊娠した。わかってはいたが、血の気が引いた。
これまで自分は、職場で何人もの若い女性と知り合った。その多くには恋愛感情は抱かなかったが、彼女たちでさえ身重の姿を見せられたら、少なからず動揺を感じたことだろう。
 それなのに、よりによって心から恋いこがれた由美が、どんな成り行きで身重の姿で目の前に現れるのか。他の男と肉体を結び合った証拠を、自分はどうして目の当たりにしなければならないのか。なぜ、そんなつらい目に遭わなければならないのか。一歩譲って、妊娠したのは仕方ないにしても、その姿を自分には見せないで欲しい。どこか自分の知らないところで生活して欲しい。青木は自問自答し、世の中は皮肉だと感じた。一方で、自分の運命にあきれかえった。
 
 青木は秋山の語った体験を思い出した。片恋の女性が身重になった姿を見て、大きな衝撃と驚きを味わったという。
 あの時の秋山の表情に現れた落胆の大きさが、今は分かるような気がした。恐らく、好きな女と他の男の男女の営みを想像し、苦渋の思いを味わった。それは、できれば味わいたくない苦さ、見たくない光景だった。
加えて、そんな体験を味わった秋山の助言も思い出した。由美にわずかな希望をつないでいた青木に、秋山は言った。青木は、うぬぼれのお人好しだ。彼氏とデートする姿を直視すべきだ。その助言も推測も、結果的に正しかった。
 要するに、2年近くも思い詰めて、あれこれとやりとりした由美と、さんざん悩んだ挙句やっと再会できたときには、由美は妊娠していたという始末だった。
 今まで女性との関係では、振られることより振ることの方が多かったような気がする。それなのに、事ここに至って、自分は何とも惨めで無様だと思った。
 初めて彼女を見初めて熱い胸のときめきを感じた時、まさか、言葉を失うようなこんな日を迎えようとは夢にも思っていなかった。
 一方で、かつて肩で風を切っていたような、元モデルの派手で華やかだった由美が、重くなった体を持てあまし、地味に装い、逃げるように歩いていく後ろ姿に、哀れみのような、寂しさのようなものを感じた。
 「できちゃった婚」という言葉が一時、巷間で流行っていたが、由美もそういう時流に乗った若者群像のひとりだったのかもしれないと、冷静に考えた。
 職場に一時的に復帰して、自分が子どもを宿した姿を、青木に見られることを恐れていない由美の気持ちが理解できた。由美にとって青木は、愛情の対象ではなかったことが、はっきりと証明された。青木は、多分強い恋愛対象にはなり得ない、職場の男性職員のひとりだった。見えないところで事態は着々と進行していた。そう判断するだけの冷静さや客観的な観点を、青木が取り戻しているのかもしれない。
 数日後、青木はまたマタニティードレスを着た由美と顔を合わせ、あいさつを交わした。かける言葉は見つからず、もはや由美のことを考えることさえ煩わしく感じ始めた。
 
その晩は、青木の勤める福祉課の前課長が、市を退職したため、本人を励ます会が、市街地のホテルで開催された。今後は、先頃完成した市立児童館の館長になる。これまで関わった様々な関係者が集まった。
 その女性坂田は最後になって、感無量で泣いた。一同は沈黙に支配された。普段は気丈夫な人だったせいで、集まった関係者は感動し、いい涙だと感じたようだった。坂田は市役所で、女性初の課長就任を成し遂げた人だった。当時、女性の人材登用は、それほど進んでいなかった。
坂田は部下を先に帰して、自分はためらわずに夜遅くまで残っていた。休日も人には知らせず、出勤したこともあったらしい。
 
青木は、坂田にまつわるある事柄を思い出した。ある時、職場で周囲の人に聞こえるような声で坂田は尋ねた。青木は、その職場で数少ない独身男性だった。
「青木さんは、目標とする女性はいるの?」
周囲の人の中には、独身のアルバイト女性も含まれていて、青木は返答に気を使った。
 青木は、一瞬ためらってから言った。
「いいえ、特にいません」
 自分の目標の女性は、あなたもよく目にしているあのアルバイト女性ですよ、とは言えなかった。
 坂田は「そうか」と言って、それ以上何も言わなかった。
その頃、青木は噂で、坂田が仕事熱心で、離婚を経験し、子供もいないと聞いていた。坂田は自分の人生に照らして、青木の人生を見ていたような気がした。
職場では男性職員を厳しく指導し、檄を飛ばした。
青木も1度、自分の担当する事業の計画を説明した後、「それではだめだ」と怒鳴られたことがあった。大塚など年配の男性職員も、一目置いていた。小太りで、妥協しない、厳しい仕事の顔つきだった。
 
坂田は宴会場で座が乱れてきた時になって、つぶやいた。
「私は今まで仕事に打ち込んできて、家庭のことや色んなことを犠牲にしてきた気がするの。その時は、それでいいと思っていたの。でも、今になると、もっと別の生き方をした方が良かったのかなと思うこともあるのよ」
 青木は、やはり仕事には適当な距離を置いた方が良さそうだ、と改めて思った。時々、自分はわざと、仕事ばかりか日常生活から目をそらして、心を空虚にする時間を持っている。生活にそのような緩急をつけることが、長い間には心身の健康に役立つようだと感じた。
 
 青木は、再び万里のところに電話を入れた。万里は落ち着いた口調で言った。
「この前は、テレビ局の人と会食していました。留守にして申し訳ありませんでした。俳優の方は本国に帰りました。彼とは直接フランス語で話していました」
 10年前に万里が言っていたことを青木は思い出した。
「私には好きな人がいるの。外国語を勉強して、彼にラブレターを書くの」
 その点では、万里は自分の恋の夢を立派に叶えたことになる。
「実は、先月結婚したんです。今度、大阪に引っ越すんです。相手は仕事関係の人ではなくて、友だちの紹介してくれた人です。今度は、大学の同窓会名簿も、私の名字が変わることになります」
「ああ、そうなんですか……」
 青木は、しばらく沈黙のままでいた。今、万里も、遠く離れた電話の向こうで、青木がどんな顔をしているのか想像しているかもしれない、と感じた。青木と万里しか知らないこれまでのやりとりが2人の脳裏をよぎる。
「それじゃあ、お幸せになってください」
 青木は、あっけにとられたままの心持ちで、誰かに促されるように言った。
「はい、さようなら」
 それはやはり、万里の関西弁のアクセントだった。万里と青木の物理的な距離を超えて、精神的な距離を象徴するような言葉の響きだった。
 これが万里との最後の会話になるな、と青木は思った。万里は新しい生活を始めようとしている。あの大学卒業の時も、青木は別れに涙を流したが、万里は新しい生活を始めようとしていた。歴史は、こうやって繰り返すのか。
この程度のことは、以前から予想はしていた。相手の結婚によって、今度こそ諦めがつくかもしれない。自分は、ずっと幻想を追いかけていたのかもしれない。相手と共有できていない自分だけの恋を、微かな望みを抱いて見つめていた。好きになって大学の4年間、別れて社会人の10年間。ざっと14年が経って、今度こそ片恋に決着がついたようだ。今この時、自分の人生が終わってしまうのもいいかもしれないと、ふと思った。
 
 青木はいつもの通り、駅で電車を降りて、暗い夜道をアパートの自宅に戻ってきた。万里のことを思って、昼間、さんざんため息をついた後だった。そこで考えた。悲しんだり嘆いたりしているのは自分だけだ。万里は好きな男と、この夜の闇の中で、男女の関係を結んでいる。あれこれ想像した。でも、誰でもしていることだ。
自分の不幸は、誰によっても救われない。恋愛の大騒ぎは、結婚によって終わる。自分の失恋の悲しみには、もはや目的も意味もない。思いっきり声をあげて、心ゆくまで泣きたい。
 
 母親がまた電話してきた。見合い話は、つい最近断ったばかりだ。今度の相手は今までで一番きれいだから、明日か明後日写真を取りに来いという。
 名の知れた短大を出て、東京に住んでいるらしい。両親は、最近地元で家を新築した。建築中、青木のいるアパートに入っていたことがある。なぜか青木のことを知っていて、いい人だ、と言っているらしい。何のことか分からない。知らないうちに、何か身元調べのようなことをされていたか。
 最も愛していた万里に結婚されてしまった。失うべき女性は、もういない。
 見合い相手の写真を、母に見せてもらうと、結構美人だった。捨てる神あれば拾う神あり、とでも運命を解釈するか。あるいは、自分から日々努力して拾う神を探すのが、生きることの実態なのかもしれない。
 
 年末になり、なお青木のパーティー通いは続いた。
 手際よく相手を見つけられるまでは、やめられずに通い続けた。会場は横浜のホテルだった。久し振りに華やかな場に身を置いた。きれいな女性はいたが、なかなか肌に合う人が見つからなかった。
 それでも、ひとりだけ希望を出し、相手から久し振りに承諾の返事が来た。横浜に住む社長秘書をしている美人だった。
しかし、その後、彼女はいくら電話しても、風邪を引いたとか、都合が悪いとか言う返事で、最後には結局断ってきた。

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