パタンジャリのヨーガスートラ 第4章
シータ K. ナムビアー (Dr.)訳
ザ・ディヴァイン・ライフ・ソサエティ 刊
*これは、友永ヨーガ学院の講師、指導者養成コース生とその修了生、そして、会員の皆さまの勉強用、参照用として掲げるものです。
Please Note: This is provided as a study and reference material for the instructors, teacher training course participants and graduates, and members of Tomonaga Yoga Institute.
第四章
Kaivalyapada 解放の部門
Ⅳ-1
Janmaushadhi mantra tapah samadhijah siddhyah
シッディ(超能力)は、生まれにより、薬草により、秘められら文句(マントラ)により、苦行に、またはサマディ(瞑想)により得られる。
時に、人はシッダ(超能力を持った人)として生まれる。そのような人はその生を受ける前のサンスカーラ(残存印象)によって超能力を得る。こうした力を薬草を摂ることで得る人、マントラを唱えることで得る人、修行を通じて得る人、そしてヨーガの瞑想によって得る人がいる。
Ⅳ-2
Jatyantaraparinamah prakrityapurat
(新しく生を得て)一つの種から別の種へと変容するときは、その者が満たされた性質(個性)が原因する。「その人が修行で得た力により、自然の力は修行者に流れ込み、その力はその人を不死へと変容させる」― アイアンガー。
Ⅳ-3
Nimittamaprayojakam prakritinam varanabhedastu tatah kshetrikavat
(上達しようとする)努力は、(変容において)意味がない。例えば農民のように、違った性質の人々が、違った選択をするのをわたしたちは見る。
ここに、深化の理論がもたらされる。そこには自然の進化の流れがある。どんな努力もそれを変えることはない。ただ障害を取り除くことはできる。農民が種の繁殖力を高めることはできない。できるのは、雑草と害虫を取り除くことだけだ。もう一つの例は、貯水池例である。水はそこにある。農民は水を呼び込まなくてもよい。ただ水門を上げれば、水は自然の力によって畑に流れ込む。このように、人が行動するというのは、水門の扉を上げることだけなのである。自然はそれを妨げるものなしに、先の例のように、雑草や害虫など成長を阻害するものなしに、種が発芽し、成長する。自然は、人の再生においても、そのように働く。
Ⅳ-4
Nirmanachittanyasmitamatrat
エゴの働き、それだけで心は作られる。新しい変容の影響をもたらそうするどんな試みも、もう一つの扉を作る。だから、エゴの働きそのものだけでも、心を作る原因となる。ここには、他の心への言及がある。
Ⅳ-5
Pravrittibhede prayojakam chittamekam anekesham
それぞれの種類の心の働きは、それぞれであるが、それらは一つの心から統制される。
もしヨーギ―が、そのヨーギ―のカルマを展開させるために、たくさんの心と肉体を作り出したとしても、そのヨーギ―の元の心が、すべての心を統制する。それぞれの心は、それぞれ自ら作り出した残存印象(サンスカーラ)を持っているわけではない。
Ⅳ-6
Tatra dhyanajamanashayam
瞑想(ディヤーナ)によって、人は蓄積されたカルマから自由になる。
人はカルマから生まれたサンスカーラ(残存印象)から、瞑想によってのみ自由になることができる。
Ⅳ-7
Karmashuklakrishnam yoginastrividhamitaresham
ヨーギーのカルマは白く(純粋)も、黒く(不純でも)もないが、他の人(普通の人)のカルマは、三つの種類があり、白いもの、黒いもの、それらの混合したものがある。
ヨーギーは、たとえ行動していたとしても、それらの行動は一切のサンスカーラを残さない。だから、それは白くも黒くもない。他の人にとってはそうはならない。他の人たちの行動は、時に純粋であり、時に不純であり、ときに二つが混在している。
Ⅳ-8
Tatah tadvipakanugunanamevadhivyaktir vasananam
そうして、周囲の状況が結実するのに適したとき、それぞれの傾向(vasana)が現れる。他の傾向は休眠状態にある。それらは将来の生において結実される可能性がある。たとえ、たくさんの生が過ぎ去っても、状況が適したときに、いくつかのサンスカーラは形をもって現れる。これはヨーギ―ではない人のケースである。
Ⅳ-9
Jetideshakala vyavahitanamapyanantaryam smritisamskarayoerkarupatvat
なぜなら記憶(スムリティ、smriti)と残存傾向(サンスカーラ)の間の同一性から、たとえ、それらが種(生)を、時間を、空間をまたいでも継続性がある。
この考えは、たとえいくつかの生を経たとしても、たとえもし、生の種類、例えば、動物や人と変遷をしていても、また、まったく違う時と場所と空間にあったとしても、記憶と傾向には、その同一の根っこを持つことから、継続性があるということである。
Ⅳ-10
Tasamanaditvam chashishho nityatvat
なぜなら、生への欲望は常に現在形であり、これら二つ(記憶と傾向)は始まりがない。
Ⅳ-11
Hetuphalashrayalambanaih samgrihitatvad esham abhave tadabhaavah
こうした二つ(記憶と傾向)は、カルマに縛り付けられており、従属している。記憶と傾向がなくなければ、カルマもまた消滅する。
ある行動は、記憶と傾向を後に残す。この関係は原因と結果のそれである。それらは順番に将来の行動の原因となる。だから、それらは、時に原因であり、時に結果となる。だから、それらが無くなれば、カルマはなくなる。ここに(原因と結果の)展開は終わる。原因が無くなったとき、結果も自動的に無くなる。(Karananashe karyanashah)
Ⅳ-12
Atitanagatam svarupato’styadhva-bhedaddharmanam
カルマと、記憶と傾向の消滅というのは、もうそこに過去も未来もないということを意味するのではない。過去と現在と未来は現実に存在する。なぜなら、違ったダルマは違った道を行くからである。
シャンカラによれば、「想像しえるもの、あるいは話されたものというのは、必ず知られ得る」。これは、過去、現在、または未来のどれかにおいて実際に知られるという意味である。誰にも、いつになっても知られないことを話そうとするのは意味がないだろう。
原則は拡大されて、そのため。過去と未来と、同じように現在のすべてのことは、すべて存在する。時の違いは単なる見えている面の違いであると考える。すべては、常に、本質的に存在する。
Ⅳ-13
Te vyaktasushma gunatmanah
(目に見えるもの)それらは、それらそのものがグナ(性質)であるからして、はっきりと顕れる場合と、(そうでなく)微細な(subtleな)ままであるかである。それらのダルマは、グナとして形どられたダルマは、それらの性質により、時に明らかであり、時にそこはかとなく漂う。
Ⅳ-14
Parinamaikatvat vastutattvam
事物の根元は、究極的にはたった一つである。
究極の段階においては、プラクリティが唯一存在する。それらの発展形(vikritis)としてたくさんに見える。
Ⅳ-15
Vastisamye chittabhedattayor vibhakatah panthah
だからといって、対象の世界(vastu)は一つしかない。それを感知する違った心(chitta)があるので、行く道が違うだけである。
Ⅳ-16
Na chaikachittatantram vastu tadapramanakam tada kim syat
対象物(その存在について)は、一つの心に拠るわけではない。一つの心がそれを感知することを辞めたら、その時、他に何が起こるのか。
対象物の世界は、一つの心が感知しないからと言って存在することを止めない。そこに他の心がそれを感知するからである。
Ⅳ-17
Taduparagapekshitvat-chittasya vastu jnatajnatam
物(対象物)が知られるか知られないかは、心がそれによって染まるか、染まらないかによって決まる。
たとえ、事物が心から独立して存在したとしても、それが心によって把握されるか否かは、その心が(それをして)そのものによって染まる(染まろうとした)ときにしか把握されない。それ以外の場合は、たとえ事物があなたの眼前にあったとしても、あなたの心が他のどこかに夢中になっていたら、たとえあなたの目が開いていたとしても、それらは目に入らないだろう。
Ⅳ-18
Sada jnatah chittavrittayas tatprabhoh purushasya-aparinamivat
心のモディフィケーション(調整、改造、修飾、限定―本来のものでないものにする働き=chitta virittis)は、常に主に(神に)よって知られる。なぜなら、プルシャは変化する主体ではないから、そこには、つねに不変で、変化しつづける事物をみるものが必要である。心の変遷(chitta virittis)は常に変動している。プルシャこそがつねに独り、そうした心の変遷を知ることができる。
Ⅳ-19
Na tat svabhasam drishyatvat
心は自分から光るものではない。それは対象物であるから。
Ⅳ-20
Eksamaye chobhayanavadharanam
それは主体と客体(対象物)を同時に把握することはできない。心はその対象物と、心そのものを同時に知ることはできない。
Ⅳ-21
Chittantaradrishye buddhi buddheratiprasanga smritisankarascha
もし、わたしたちが、そこに二つの心があると考えると、観察者(主体)と、観察されるもの(客体、対象)を知るための、もう一つのブッディ(識別機能)がなければならなくなるなどして、記憶の混乱が生じるだろう。
Ⅳ-22
Chiterapratisamkramayastadakarapattau svabuddhi samvedanam
対象物が意識にもう映されなくなったとき、心は対象物を形どることがなくなり、ブッディはそのもの自身を知る。
Ⅳ-23
Drashtridrishyoparaktam chittam sarvartham
チッタ(心)は(今)、見る者とみられるもの両方として染められており、すべてを把握している。「こころは、それが昔あったように、アートマンと外部の対象物との間にいる。その、対象物を感覚するという力は、アートマンから借りてきたものだった。まったく光の入らない漆黒の部屋においては、鏡はその前にいる人を映せない。しかし光がもたらされたら、鏡はすぐに人を知覚する」* 心は、水晶のように働き、すべてを映すものと考えられている。普通の人は、心はすべてを映し出すと考えるが、ヨーギーは心の偉大さは単なる反映でしかないことを知っている。プルシャなくして、心は何も知覚することはできない。(*スワミ・プラバナンダによる)
Ⅳ-24
Tadasmkhyeya vasanabhischitrampi parartham samhatyakaritvat
たとえ、心は無数の印象によって染められても、プルシャのために機能する。心はそれと対立して働く。(心はプルシャに対立して働くという含意?)
心が働くには、プルシャからの光がなければならない。
Ⅳ-25
Vishehadarshina atmabhavabhavananivritih
この違いを見るものができるものは、心とアートマンを混同しなくなる。(Ⅲ-36参照のこと)
Ⅳ-26
Tada vivekanimnam kaivalyapragabhavam chittam
そうして、心は識別の修練を深めることでカイヴァリヤ(独存)へ到達する。到達される前は空席だったところに。
Ⅳ-27
Tacchidreshu pratyayantarani samakarebhyah
こうした独存の経験にギャップ(chhidra)がある場合、過去のサンスカーラによる動揺が起こる場合がある。
Ⅳ-28
Hanamesham kleshavaduktam
人は、こうしたことも、苦悩(afflictions、クレーシャ)を乗り越えるのと同じ方法で乗り越えることができる。
Ⅳ-29
Prasamkhyane’pyakusidasya sarvatha vivekakhyateh dharmameghah samadhi
なぜなら、識別の力によって得られた叡智と、理論で到達できる最高の種類の知識によって気が散らされていない時、人は美徳の雲(ダルマメーガ、法雲)のサマディに至る。
「ヨーギ―が、最高の形の知恵でさえ足手まといになることを知り、この啓発された叡智や精神的な達成にさえ気持ちが向かずにいることができれば、猛烈な雨のように美徳さがその人に降り注ぎ、その人の個の性質を洗い流す。その人の望みは精神的な健康さである。その人は純粋さと明快さとともにある。その人の個の性質は変容した。その人はより慈愛に満ち、普遍で神聖な存在となる。その人はダルマメーガサマディという、無比の至福に永遠に住まう。― B.K.S.Iyenger.
Ⅳ-30
Tada sarva-avaranamalapetasya jnanasya nanatyajjneyamlpam
そうして、すべての悩める行いは終わる。
Ⅳ-31
Tada sarva-avaranamalapetasya jnanasya anantyajjneyamalpam
すべての不純なものの見方が流れ去り、限りない叡智が輝く。そこには何ももうさらに知れるものはない。「それはまるで一つの雲もなく、快晴の日に太陽が一番高く上ったようなものだ」(シャンカラーヴィヴァーラナ)
Ⅳ-32
Tatah kritaythanam parinamakramasamaptirgunanam
そうして、グナの継続してきた移り変わりは、その目的を達したので終わりとなる。
Ⅳ-33
Kshanapratiyogi parinamaparantanirgrahyah kramah
引き続き起こることは、瞬間の連続だけであり、それらは、連続の終わりに理解される。「時間は瞬間の連続であるからして、グナは瞬間ごとに変移が起こる。わたしたちの感覚に認知され得るだけ変移が起こったとき、わたしたちは、一定の時間をおいて、瞬間の(世界が)変ったことに気づくだけである。例えば、瞬間の、一つのつぼみが開くという出来事に私たちはきづかなくても、それらがたてつづけに起こって数時間がという時間が経った後に、わたしたちは花が咲いたという変移があったことを知る。同じことが印象や思いが、アイディアや決断へと導くということが起こる。」(スワミ・プラバナンダ)
Ⅳ-34
Purusharthashunyanam gunanam pratiprasavah kaivalyam svarupaparatistha va chitishakteriti
グナはもうプルシャに仕えるという目的がないので、グナはプラクリティへ戻る。これがカイヴァリヤ(独存)、あるいは、プルシャそのものの、意識の確立である。