勉強について
「勉強って、ある意味ぜいたくなものだ。」
書いているときは、おはようございます。
もなりんです。
ここんところ、学校関係のことを別に教育とかに従事しているわけではないのですが書いていました。
どうも、自分の心のなかではなにか引っ掛かるものがかつての自分にはあったのだと思ってくださるとありがたいです。
と、色々と書いていたのですが、そもそも学校って何かというより、「勉強」というものをちょっとばかりとらえなおしておいてもいいかなと思います。
これは自分の知る範囲ですので、もし間違っていたら申し訳ないです。
勉強とか学校とかって、もともとをたどると確か昔の偉い階級の人が「さて、我々は何のために生きていけばいいのか?」とか「生きるとはなんぞや」というようなことを問い詰めていくようなものだった気がします。
今でいうところの「教養」であったり、「哲学」であったりが近いのかもしれません。
古代ギリシャのほう、ソクラテスとかが活きていた時代とかは弁論もあり、はなしを通じていかに伝えることができるのかというのをやっていました。
(もし自分が弁論とかしたら、間違いなくできない人間としてのレッテルが貼られます。何か言われる度に考えこんでしまい、すぐに言葉がでてこないです。)
今も欧米とかでは哲学とか倫理とか、かなり小さい頃からいわゆるリベラルアーツというのが行われていて、かなり深い考え方ができているみたいです(アメリカとかは州で教育方針が違うので何を教えているのかは一概にはいえないみたいですが)。
日本ですと、間違いなく正誤式になってしまい本来の意図するものができないでしょうね。
で!はなしを語源からというところに戻しますが。
そもそもが「生きるということをどうするか」というところから発せられているのだとしたら、今の学校教育とかってどこかずれていると思います。
義務づけられているのは、まあともかくとして、なぜにここまで正誤での判断をしなければならないのか。
また、なぜに指定されたことを全てできるようにならなければならないのか。
世の中には完璧な人間はいません。
何かがよかったら、どこかしらには苦手なものとかがあるのが普通なこと。
例えば水泳とかは得意でも他の運動はだめという人もいれば考えることは得意でも手先を器用に使うのはうまくないという人もいる。
それを一律に同程度にしようとしたら、それは無理がでてしまうというもの。
勿論、高校とかは選択していくこともできますが、やはり偏差値とか試験の結果でしかの一面でしか判断ができない。
はたして、そういう教育をされた人達はどうなっていくのか?
今もなお、生き方をどうしようかと見つめなおしている最中の自分から見ても、やはり意味のあることを学んでおきたかったし、これからもやれるならやっておきたいところです。