高齢者という存在
「そりゃ、長年懸命に生きていれば体にガタもくるし、どこかしこ痛いだのなんだのは出てくる。けど、その周りにはどんな人がいて支えてもらっているのかというのはまたいい人生の参考とみえるのではないか」
書いているときは、おはようございます!
もなりんです。
流石に2試合分は体にきているみたいです…。
起きるときに若干、体の張りを覚えるわわりと早めに寝たわりにはあまり深い睡眠にはならなかったのかなというのもありました。
しかしながら、どんな状況であっても勤務にはでる必要があります。
プロフィールにあるとおり、リハビリのことに携さわらせてもらっています。
そうなると、どうしても多くなりがちなのが「対高齢者」との関わりというところです。
デイにしても訪問看護にしても、介護保険を適応(訪問看護は医療保険でもできる範囲もありますが…)し、来てもらったり、あるいは自宅へお伺いするのですが。
やはりどこかしらの障害を程度の差はあれど抱えているものです。
勿論、介護保険の特性上、障害予防や介護の介入を必要とされますよという判断が自治体からされていますから仕方はないところですが。
で、そうすると本人ないし家族の方は(特に話せる本人)、「少しでも痛みが楽になる」ことであったり「以前できたようなことができないか」というようなことを、極端に体が動けなくなってしまうときは別として、話としてでてきます。
とはいえ、彼らも若い人と比べると残された時間も少ないし、体力的にも障害を抱える前からも落ちていることも少なくない。
そうなると、どこか1つ痛みをとれたとしてもまた別のところで痛みであったりということを話してきます。
だから、人の手を借りないといけなくなる場面も多いです。
そういうところで、本当は多くの人が支えなければならないのでしょうが、支える側も実は年齢層が高かったりしています。
仕事柄直接人の動きに関わるものですから、誰かに支えてもらわなければならない立場の人をみていますと、こういうことも考えなければならない。
そして、支える人は誰なのかということなのですが。
これは、勿論自分達医療や介護に携わる人だけではないでしょう。
やはり高齢者のその周辺にいるのは誰か、ということなのでしょうが。
家族であったり、血縁のもの、さらには友人、かつての仕事仲間…。
なんでもいいでしょうが、そういう人たちが果たしてどれほどいるのか。
そういうところからみていっても、中々面白い場面に出くわせるかもしれませんね。
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もなりん女性「あれー、今日はもう終わりなの?ボリボリ(ラスクを食べる音)」
私「おはようもな子。って朝からラスクを食べるのか。」
もなりん女性「やっぱり美味しいものはいつ食べてもいいじゃん(・∀・)vイェイ」
私「(今日の話は、彼女には通じているのか…)」