テープ起こしが取材者にとって重要な仕事である理由
今日は、溜まっていた取材録の「テープ起こし」をひたすら。今はテープなんかないから、「文字起こし」というのが一般的なのだろうか。
このテープ起こし(慣れているのでこう言い続けますが)、
いつまでも好きになれない自分の声を聞き続けなくてはいけないのと、自分の取材のポンコツぶりにも向き合わないといけないという意味で、かなりの苦行ではある。だがしかし、私はこの作業自体は嫌いではない。
没頭できるし、「書く」時間ほど産みの苦しみがあるわけではない。どうしても無理ってとき以外は、できるだけ自分でやっている。
「速記」という職業があることを知ったのは、予算が潤沢にあった雑誌編集時代。
急ぎの取材案件には同席してもらい、特急料金でテープ起こしを上げてもらっていた。
取材時に見せてもらった速記者さんのメモ帳には、文字とは言えない、不思議な記号がいくつも並んでいた。その記号には一定のルール?意味があり、それをもとに文字をおこすのだとか。
2時間のインタビューだと、普通にやってれば6時間くらいはかかる。速記者さんだとどのくらいなのだろう。三日ほどして上がってきた(超特急料金)、プロのテープ起こしは、さすがにものすごい品質を放っていた。
聞き取りにくかった音も、無駄な感嘆や笑い声も、全て文字になっていて(録音が不明瞭な場合のみ、判読不明と書かれていた)、いかにもその取材時間が再現されているような原稿であった。
そのとき、テープ起こしを外注する旨味を知ってしまったことは否めない。品質のよさといい手間のかからなさといい、予算があるなら、できるだけ依頼したい、とも思うようになった。
さかのぼって、テープ起こしとは、私が新卒入社した頃は新人編集者の仕事であった。
実際、当時はそのくらいでしか役に立てず、張り切って取り組めた唯一の仕事であったが、そのせいか、当時教えられたことは今だに心にこびりついて離れない。
「最初は一字一句もらさず、あー、とか、えー、とか意味のない言葉も全て文字起こししてね。慣れてきたらそういうのは省略してもいいけど、今はどんな声も音も全て起こすこと」
この教えは、テープ起こしするたびに思い出す。今日ももちろん反芻した。
というのも当時は「え??意味ない言葉も?」なんて思ったからですね。声のトーンや音に、どれほどの「意味」があるか、あの頃は全くわかっていなかったので。
今日は2時間の取材録がやっと起こし終わったけれど、
改めて思うのは、やっぱりテープ起こしは、できるだけ自分でやった方がいいなということだ。
今日だけで、取材の内容、そして自分の理解がずいぶん深まった気がする。
あの時、表情に気を取られて腑に落ちてなかった相手の言葉の真意や、会話の中で聞き流していた内容の重要性。全く気づいていなかったことにテープ起こししてやっと気づくわけだ。
取材している時の自分を俯瞰できていることも大きい。「ここは省いていい」とかの判断が、勘でわかるようになる。何が重要で、何がいらないか。書き起こしの必要不必要の判断が、聞きながらできるようになる(と言っても、ほんのちょっと語尾や感嘆などのことですけれど)。
テープ起こししなければわからなかったことが必ずある。音声には、文字以上の情報が詰まっているのだ。かつての上司の教えは、今になって本当によくわかる。
それにもまして、自分の取材のツメの甘さが客観的にわかる時間は、ある意味とても貴重だ。
質問が偉そうに聞こえるところは直そうと思ったし、前半の内容を忘れて同じ質問をしてしまっていたり、相手からの回答を誤解して受け止めていたところもあった。
自分の解釈をぶつけて結果的に相手から言葉を引き出すことに成功していたところなど、よくやった!と思えるところもなかったわけではない。
とにかく、取材は流れてそれで終わってしまう。うまくいったかどうかなんて、その日のテンションで決めてしまいがちで、改めて録音を聞いてみたら、全く違った印象が残ることだってある。
そうやって、ダメな自分にも良い自分にも気づかされる時間を、やすやすと他人に譲ることはない。
テープ起こしは学びの宝庫。すでにバイブル確定のこの本にも、やはり同じようなことが書いてあった。