ライターとして「自分なりのスタイル」を確立すること
こちらのウェブメディアで、地域活性化を担う人の挑戦やイベントレポートなどを取材・執筆させてもらっている。
最近の記事。
今日も別件取材で、「知り合い」程度の関係性だったその人の話を聞き、またもや満たされた気持ちに。
全く知らない人をゼロから取材するより、適度に知っている人を取材したほうが面白いと気づいたのは最近のこと。
自分の凝り固まった価値観や偏見を浮かび上がらせてくれる、その人との微妙にあった距離感が、今日を境に変わっていく感覚が楽しい。そうやって、自分の固定概念が壊されていくのが好き。
数年前まで、地域メディアや雑誌でこういう取材ばかりをやっていたのだが、目を痛めてしまい、ここ数年は書籍や自分のペースでできる執筆にシフトした。
「もうライターをやることはないだろうなあ・・・」
そのくらい、いっときはライターであると名乗ることもしんどかったし、もう戻らないと決めて手放した仕事だった。
どこか「無理」していたし、「自信のなさ」があったんだろうと思う。「やめよう」と思ったら急に、肩の力が抜けた。
ところが、何に力が入っていたんだろう? と思うくらい、ここ最近は、人生で一番、ライターであることを楽しめている。
「抜かりなく」、「伝わる文章で書き」、「締め切り遵守で納品」しようとしていた取材の仕事は、
ある意味、「肩の力を抜いて」、「自分がこれが最善だと思う文体で」、「自分のペースで」できる仕事に変わっている。
はっきりいって私のように、どこかの編集部でものすごく下積みがあったわけでもない独立系のライターは、どこかで誰かに正解を学んだわけではない。
独学するしかないし、場数を踏むしかない。
そのうち、「頼れるライター」像を、必死で演じるようになったんだろうと思う。
「いつ切られるかわからない」、いつもそんなギリギリの気持ちで、仕事をしていたような気がする。あの頃は。
案の定、体を痛め、ライターとしての自分のやり方の未熟さに呆然として、立ち止まらざるを得なくなった。
今、ライター業がこんなに気楽に取り組めているのはなぜか。以前の自分と何が一番違うかを振り返ってみると、こんなことが見えてくる。
・誰かから「切られる」存在なのではなく、いいものを作り、届けようとする「チーム」の一員としての仕事を、自分でちゃんと選ぶようになったこと
・「高いレベルに達しない原稿でなければならない」と考えるのではなく、「今の自分で最善を尽くした原稿を納品する」と決めたこと
・自分なりの「スタイル」を大事にできるようになったこと
特に最後の「自分なりのスタイル」は、これは私にとっては年数が必要だったものだ。
ライターから離れ、文筆や本づくりに注力したここ数年が、非常に大きかった。
メディアの個性、ペルソナに応じた原稿作りはむしろ好きな方だ。けれど、あのまま、依頼主の言われるがまま書き続けて年中肩こり、視力低下、睡眠不足が続くのであれば、
もっと自由になって、自分の文体を突き詰めてみたい、そう思った。
枠を一度出て、思い切って自分を表現してみたいと。
そして、そのフィールドで暴れてみたことで、自分の筆致のくせ、表現力の限界、文章の稚拙さを客観的に知り(これは喜びでもあり、痛みでもあるけれど)
今度は、制約の中で自分をどうやって表現していくか、その面白さ、楽しさにも気づけるようになった。
この本にも触れられていたけれど、執筆の得意分野を持つこと以上に、今の自分が、いちばん自信を持ってアウトプットできる文体、つまり自分なりのスタイルとは何か、を突き詰めておくことの方がたぶん、強い。
それは、流行り廃れのあるジャンルの確立よりも、ずっと太く、長く、しぶとく自分を支えてくれる。
スタイルの確立、というと大仰に聞こえるかもしれないが、「自分が一番ラクに表現できる文体とは何か」、ということなんだろうと私は理解している。
自分が無理なく、ラクに書けて、それでいて的確に読者のニーズに応えられる、自分なりの文章の流儀。
それは、得意ジャンルを持つことよりも、「この人に書いてもらいたい」というしぶとい信頼に繋がるんだと思うのだ。
インタビューなのか、コラムなのか、はたまた対談原稿なのか。
自由なフィールドで自分を表現することよりも、どう自分を消して「伝える」に徹することができるのか。
少々時間はかかっても、
スタイルを身につけることは、肩肘はって「切られないライターでいなければ!」と息巻くことなんかではなく、
「このスタイルが合うか、合わないか」、「合わなければ仕方がない」とお互いを認め合える、自立したコミュニケーション・仕事の基盤になるものなのだろうな、と思うわけで、
だからこそ今、ライター業がおもしろいなと感じているのだろうなと思うのである。
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