読書記録・2010/08/10「公共哲学とはなにか」を読んで
2010年8月10日
山脇直司著、「公共哲学とはなにか」を読んで
公共哲学とは、「活私開公」という、個人が異質の他者とのコミュニケーションのなかで活かされ、そのことにより公共性が開花されるという理念を基礎に、「政府の公」、「民の公共」、「私的領域」相関関係にある三元論です。本著では、文化的歴史的多様性の中で国家の枠組みを超えた人類の課題と取り組む公共哲学を目指します。
今日本に多く見られるのは、自己を犠牲にして公に尽くすといった「滅私奉公」的思想、そしてその逆に、自分一人の世界に閉じこもり他者感覚を喪失している「滅公奉私」的思想だと著者はのべます。これらに共通して欠けているもの、それは他者との関わりの中で自分というものを活かしていく、そのために積極的に公共世界を改革していこうという精神であると考えます。今こそ、従来の、公というのは政府の仕事、お上に任せておけばいいという考え方から抜け出さねばなりません。
そのために必要なのが、この公共哲学という考え方です。公共哲学を実現するために求められるもの、それは、正義を基礎にした人権、徳、責任と、人類みな同胞で平等であるとしたコスモポリタニズムです。自分の幸福を追求するとともに、これを持ち合わせた上で、人を思いやりながら公共のためになるものも同時に追求していく必要があります。そしてそれは自分の地域や国だけに限らず、利害が世界的にどう影響していくのかということも同時に考えていきます。公共哲学的考え方をとることで、より民主的で、公共の福祉、ひいては自分自身の幸福が実現された社会を創造することができるでしょう。
ルソーは一般意志の担い手たる市民の社会的義務を磨くために「市民宗教」の必要を説き、それを信じない人々を政治共同体から追放できるとまで述べましたが、学校教育が普及している今、公共哲学的考え方をとりいれた教育が必要なのではないかと考えます。
ただ、そのとき注意しなくてはならないのは、“公共の福祉”という考え方にとらわれすぎてどうしても自己を滅してしまう立場に陥ってしまうのではないか、ということです。日本人の傾向として個が確立していないことがあげられると思います。他者との関わりの中で自分を活かしていくという立場を忘れてはなりませんが、まずは、自分というものをはっきりと主張できるような環境を教育現場に作っていくべきです。そうすることで、公共哲学を考えていける土台に立つことできる、そのように考えます。
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