望むことは生きること
最近私は、どう在りたいのか、どう生きたいのか、どうだったら最高?と自分の望みにアクセスしてるんだけど、それで分かってきたのが、今までわたしは自分がやりたい!とワクワクした望みを怖さから諦めたり、気づいていないふりをしていたということ。
これいい!それやりたい!そう望みが出てきても、同時に、でもどうやって?!本当に出来るの?
いつも出来ない理由も瞬時に出てきて望みが砕け散った。反射的に消し過ぎてて望みが出たことも気づいてなかったり。
やってみたい!これいい!とアイディアが閃いたときの大きなエネルギーはその瞬間なくなった。
ずーっとその癖を繰り返して望みを潰したり抑えつけてた結果、私は何をやりたいのか、何が好きなのかも分からなくなってたんだと思う。
いつも私は本当は何がしたいんだろう。何が好きなんだろう。何に歓びを感じるんだろうってずっと探し回ってた。
周りの人はわかるじゃん!て思うようだけど、自分ではしっくりこなくて。
何をやっても続かない出来ない私を自分で創り出して苦しくなってた。
自分のことを語るのも、自分の意見を話すことも、間違ってるんじゃないかと怖くて自分の考えを伝えずにその場をやり過ごすことが多かった。
少し前から時々思いだすんだけど、中学生か高校くらいのときかな?日記帳に、
「もう感情なんか感じたくない!感情なんか無くなればいいのに!」
と殴り書きした文字を思いだす。
感情に振り回されて感情をどう扱ったらいいのか分からなくて嫌気が差してた。
それから、
いつもやりたいことを伝えるたびに、やるたびに、両親に反対されたイライラを書き記したことも。
わたしがワクワクしながらやりたいことを話すと毎回
「そんなこと、、、。」と笑われた。(くだらないというニュアンスに感じた)
「またそんなことやるのか」
「そんなんできない、やめとけ」
認めてもらいたいのに、イイネと言ってもらいたいのに、いつも話しては、嫌な気持ちになってた。
「何でいつも否定ばっかするの?!!」
と、これも殴り書きしてた。
「もう両親には何も話さない!!」とも書いたし、心を閉じたのを覚えてる。
それから両親には自分のやりたいことをなるべく話さなかったし、わたしのやりたいことを人に話すのも恥ずかしくなっていた。
振り返ると、私はどれだけ思いを自分の中に、自分の身体に溜めてきたんだろう。伝えずに、心に秘めてきたんだろう。
でも、最近それが限界に来てる感じがする。
もうこの癖やめたい。
私は私にしかなれないし、私でしか在れない。私は私を生きたい。
どんな在り方をしたいか、どんなふうに生きたいかを毎日確認してるせいか、そんな言葉が良く出てくる。
私から湧き出るものをやらないでどうするんだ。押し込めてどうするんだ。湧き出たものを大切にしないで放っておいて私はどこに在るんだ。
それじゃわたしはどこにもいないじゃん!
そんなふうに感じる瞬間が増えてきた。
くだらないことなんてない。湧いたらやってみればいい!やらなきゃ!なんでもいい。怖いかもしれないけど自分の望みを叶えていきたい。出てきた感情も感じてあげよう。
それが生きるってことでしょ?わたしを生きる意味でしょ?わたしが望むことがわたしがいきること。
あれがやりたい。これがやってみたい。それは私だからこそ湧いてくる望みなんだ。
まずは望みひとつひとつを丁寧に拾ってあげよう。わたしが感じること全てが尊いことなんだ。
こう心から思えてきたことはきっとわたしに近づけている証拠だよね。
昨日、公園で一人でウクレレの弾き語りをしてSNSにアップするっていうチャレンジをしたんだけど、それもそんな経緯から。
勇気を出してどんなかたちでもいいから少しでも踏み出してみよう!と今の自分にできることをやってみた。
すぐ忘れちゃうかもしれないけど、癖に怯んでしまうこともあると思うけど、また思い出せばいい!
色々書いたけど、これから私は在りたいわたしであるために、癖をやめるために、わたしに寄り添ってちゃんと望みを聞いて、小さくてもチャレンジしようと思う。
そのひとつでもある伝えること。
自分が思うこと、感じること、まだ恥ずかしいし、今までやってこなかったから文章書くのもめちゃめちゃ時間かかるし、ヘタクソで適当な言葉で表現できないかもしれないし、まとまらないけど、伝えることをこの場で練習していこうと思います。
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