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私が「私」だけの人生を生きていた、臨月の夏の日々が風のように|あいみょん「愛の花」
締切が迫った仕事を、ソファで仕上げようと腰を下ろす。夫も同じリビングにいるので、イヤホンをつけてSpotifyでランダムに作られたリストを聴く。ノイズキャンセリングをオフにしたイヤホンのその先からは、構って、と鳴く猫の声が聴こえてくる。撫でながら、片方のイヤホンをそっと外し、息子の夜泣きの声が聞こえないことにホッと胸を撫で下ろす。
しばらく仕事を続ける。眠たくなってきたけれど、今日だけは完璧に仕上げなければ、というデッドのデッド。
そういう頃に、ふと、透き通った雰囲気を纏う音楽と声が聴こえてくる。どこか、昔、そう遠くない過去に、この曲を何度か繰り返して聞いていたような記憶が音とともに運ばれる。
あいみょんの「愛の花」。気持ちや匂い、過去に呼ばれ、まだ眠たい夏の午前、リビングから漏れるその音楽を、畳に敷かれた布団に寝転がりながら、朝が来たことに、その音でそうだ、気が付く日々を送っていた。そういう記憶が、泣きたいような気持ちと一緒に、東京の夜、風のように起こされる。
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里帰りの妊娠中。新潟、臨月の重たいお腹。寝返りを打つことすらままならない、ふたつの命を運ぶ箱であった私の日々の最後の方。もうすぐ産まれる、いつ産まれるのかしら、と願いのような祈りのような、恐いような嬉しいような、早く会いたいようなもう少しだけこのままでもいいような。けれど体の負担が大きくなりすぎて、そろそろこの命、体外に出したいと思い始めているあの夏の日々の朝。
何かあった時のために、と2階の昔の私の部屋ではなく、リビングの隣の和室にしつらえられた、臨時の私の里帰り用の部屋。もうすぐここに新生児がやってくる、はずの部屋。そういう部屋で、私はまだ誰にも強制的に起こされたり、ご飯をせがまれたり、寝返りで顔を蹴られたりとか、切ったばかりの爪で引っ掻かれたりとか。そういうことなしに、お腹に別の命がいるとはいえども、「私」の人生を生きていた。そして、毎朝、朝ドラ「らんまん」を観る両親の習慣で、この歌をまどろみの中で聴いていたのだ。
「私」が「私」だった日々。もう二度と戻らない、なんて思わない。けれど今からは確かに遠い。私が私だけの人生を歩んでいて、子供がいなかった頃の世界。
どうしてこれを打ちながら、思い出しながら、涙が出てくるんだろう。泣けてくるんだろう。どちらも確かに幸せで、私は今も子どもがいて本当によかったと思っている。後悔など一つもない。けれど「愛の花」を聞きながら、好きな時間、好きなタイミングで眠って起きたあの頃、実家に包まれていたあの日々は、間違いなく大切で幸せで、ある意味でもう二度と戻ることができないかけがえのない、今から遠い静かな日々。
クリアな願いがただ一つ、私たちの間に流れていた。そういう思いや匂いを思い出す。夏の日。ただただ、無事に産まれてほしいと。あなたはどんなお顔をしているの、と。本当にエコーが言う通りの男の子なのかしら、というようなところから。知らなかった日々があの夏には。
すやりと眠る、布団をすぐに蹴ってしまう1歳の男の子。元気で、有り余っていて、話せる言葉は「まま、ぱぱ、ばば」の3語からなかなか進まない。けれど走れるし、踊れるし、ゲラゲラと笑えるし、いちごを見るとニヤリとするし、猫たちのことは大好きで片想い、長靴をしまってある場所を覚えていつだって履きたいと「んっ!」と一生懸命に発声と仕草で教えてくれる、あの頃まだ会ったことのなかった小さな命。
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すく、すくすく。不可逆。どんなに大切でも、抱きしめても、この手でしっかりと感触を掴むと決めて生きても。流れていってしまう。残るものは手のひらにしずくだけ。あぁそう、だからだ、だから私は書くし撮るし、私の人生にはその日々が確かにあったと覚えておくために。
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畳のざらりとした感じ。目をなぞって、お腹を撫でる。おはよう、とお腹に伝え、両親にも伝えて、そうして臨月の超絶腹ペコのお腹に、「二人分だ」とご飯を入れる。頑張って歩いて、そのうちにどうしてか歩けなくなって、お腹が痛いような気がすると思ったら、夜中に破水して、私は「私」だけの人生にさよならを言う。
そんなことは、あの時思っていなかったけれど。今振り返ると、なんて甘美で自分勝手で、最高に美しい日々だったんだろうと思うのだ。今が、別の種類の幸せで満ち満ちているということを全力で肯定するとは別のところで。
そういうことを、音楽と一緒に思い出す。記憶がそより。風に乗って。あぁ違う、私はそう、締切をちゃんと終わらせなければならないのよ。
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妊娠日記(200days diary)
子どもが産まれるまでの特別な日々を忘れないために
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